型というのは暗号の片割れに過ぎない
- lucifer_af
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ニコ動で居合いの達人の動画を見ていて、その流れで、昔ながらの木刀を使った立ち会いというか、演舞みたいなものの動画を見ると、剣道とずいぶん違うなと思う。
2010-12-20 10:31:43木刀で立ち会ってる人たちは、こう、木刀を頭上に担いで、ほとんど床と平行に構えて、背筋は曲がって、足は少しがに股気味に開いて、社会科の教科書で見た鎌倉武士の絵にそっくりに見えた。剣道の人たちは、もっと背をまっすぐ伸ばして、ありようが凛としているというか
2010-12-20 10:33:11@tdaigu 「足斬ってもいい」ルールになると、K1 グランプリが一時期ローキックの削り合いになってしまったような、地味で痛々しい勝負になっちゃうのかも。。
2010-12-20 11:05:30@medtoolz 実戦では無駄な力を抜いた鎌倉武士スタイルの方がとっさの動きができる、と聞いたことがあります。背筋をピンとのばした剣道は明治以降に生まれた人工的なものだとか。
2010-12-20 10:56:31@medtoolz 幕末武士の写真を見ても、ダラリとした自然体の写真が多いですね。これが彼らの正装でしょうから、体の各所に力をいれた美しい所作は後天的なんだと思います。
2010-12-20 11:11:45@odomon 虎眼流みたいに、現代剣道の有段者の人たちに真剣を持ってもらって、防具なしでの演舞を思考実験してもらいたいですよね。。現代剣道は、ある意味相討ち前提だから、型の考えかたがずいぶん変わってくるでしょうし。
2010-12-20 11:22:24型というのは暫定的な正解に過ぎなくて、「型がないと教えられない」から、あとから生み出された何かで、型を通じて、その裏にある視床の体験を再現することを心がけないと、型を超えて名人に到達することは出来ないんだろう
2010-12-20 11:04:09剣道の型は教えるためのもの。各流派の型は、空耳期待の非可逆エンコード。RT @medtoolz: 型を通じて、その裏にある視床の体験を再現することを心がけないと、型を超えて名人に到達することは出来ないんだろう
2010-12-20 13:16:07武芸の語ってたぶん、師匠の身体を通じて観察した、その人が生きてきた世界そのもので、身体というものは、世界に一種の圧縮をかけて、頭の手に負える大きさに、問題を小さくしている
2010-12-20 13:56:20型というのはだから、あれは暗号の片割れに過ぎなくて、師匠の身体という、圧縮ファイルを作った暗号鍵みたいなものを理解しない限り、ゆがみなく展開できない。虎眼流の技は6本指前提で、弟子はどうしたってオリジナルを考案しないといけないのだろうし
2010-12-20 13:57:51店に怒鳴り込むときのコツみたいなのって、「店長を出せ、当事者を出せ」ってトップと当事者を呼びつけて、トップを怒鳴り上げたあげくに、最後に「どうか彼を叱らないでやって下さい」なんて、そんなことあるわけないのに、自分をいい人にして撤退することなんだと思う。
2010-12-20 15:14:42ずいぶん前の、勝間ひろゆき論争みたいに、○○ってどういう意味なんですか? という無敵話法で相手が罠を仕掛けてきたときには、勝手に論を進めて、「ひろゆきも本当は分かっていて内心賛同してくれるはず」なんて、勝手に突っ走ることが切り返しになるのだと思う
2010-12-20 16:13:40このあたりはこう、居合道の達人を相手に、剣術の達人がちょっと離れた場所に立って、一言「どうぞ」とつぶやいたら、居合いの達人は何も出来なかった、なんて話にも通じて、受けに特化した相手に攻め入るのは、よっぽどの力量差がないと言い負ける
2010-12-20 16:14:52こういうときにはだから、相手の言葉に徹底的につきあわない道を探すか、逆に最初から負けるのを前提に、ひと負けしてみせる代わりに、目標をもっと遠くにおいて、その負けを、目的地への足がかりにしてみせるか、何か考えないといけない
2010-12-20 16:16:24