戦後まもなくの「原爆」イメージのメディア上での一断片 - 「放射能城」、「ピカドンクイズ」
いまは出典が示せませんが、敗戦後間もない広島のラジオで「ピカドンクイズ」とかいう番組名だかが使われたことがあると「民放三和子」(永六輔氏命名)の座談会で触れられているのを読んだ記憶があります。なんて名前の本だったか…… twitter.com/Naukit/status/…
2015-04-16 22:49:44@Sad_Juno 何で目にされたかわかりますか?媒体の種類とか、いつ頃のものかとか程度でも構いません。お手隙の際にでもリプくださればありがたいです。
2015-04-20 04:44:07@Naukit Google Booksで見つかりました。『放送ウーマンの70年』(講談社)という本でした。 books.google.co.jp/books?ei=iWQ0V…
2015-04-20 11:38:08出展を確認したのであらためて。@Naukit さんが昭和26年のアサヒグラフのとある号広島城再建情報に「放射能城」との小見出しありとツイートされていました。(続く) twitter.com/Naukit/status/…
2015-04-26 17:11:40(「出展」は「出典」の誤変換です)
時期としてはその後になりますが、ラジオ中国(当時、現中国放送)で「ピカドンクイズ」というクイズがあったという証言があります。収められているのは日本女性放送者懇談会編『放送ウーマンの70年』(講談社)。(続く)
2015-04-26 17:12:02証言されているのはラジオ中国開局時に入社された小畑和子さん。時期ははっきりとは書かれていないのですが、開局した年、昭和27(1952)年のようです。(続く)
2015-04-26 17:12:20引用しますと、「そのうち編成部長が「和ちゃんこういうのやらないか」って持ってきたのが「ピカドンクイズ」というので、朝ピカッて問題が光って、夕方解答がドン、というクイズ。すごいタイトルですけどね。(続く)
2015-04-26 17:12:49(略)だからそんなのが流行ってたの。ピッカドンっていうのが今だったら考えられないですね。でも一ヵ月くらいでピカドンはやめて「ピンポンクイズ」ってなったの」(『放送ウーマンの70年』p.161)
2015-04-26 17:13:31@Sad_Juno たまたまRCCの社史『中国放送の50年』もあったので確認してみたところ、開局当日のラジオ欄の写真に、午前7時55分「ピカドンクイズ」とありました。朝っぱら、それも開局第一声の1時間25分後で驚きました。何に役立つかわからない情報ですが、お礼代わりに。
2015-04-26 19:01:19@Naukit 貴重な情報ありがとうございます。開局当日ということは1952年で確定ですね。当時の雰囲気を推し量るのはなかなかむずかしいものです。 ツイートを引用させていただいてTogetterにまとめを作成させていただければと思うのですが、いかがでしょうか。
2015-04-26 19:25:31@Sad_Juno 「ピカドンクイズ」のラジオ欄ですが、中国放送50年史編さん委員会編『中国放送の50年:その時、いつもそばにいた』(中国放送、2002年)34頁の図「開局当日の『中国新聞』ラジオ欄」です(中国新聞に当たるべきなんですが…)。
2015-04-27 10:48:06@Sad_Juno 本文中35頁にも言及があります。「開局時の自社制作番組は50%以上にも及」んでいたようで、「このころの主な自主制作は」と列挙されている中の一つとして番組名があります。
2015-04-27 10:52:39@Sad_Juno 「放射能城」は、『アサヒグラフ』1951年4月25日号(第1392号)12頁の「馬車の窓から」という地方情報コラム・コーナーに掲載されています。この時の「城」は、国体開催に併せて木造で外観再現をした天守閣で、今のものとは違います。
2015-04-27 11:02:54@Sad_Juno 記事自体も辛辣で、これは国体に併せた「客寄せ用郷土館」で、「夜ともなれば五階建ての天守閣からネオンがパッと輝いて夜行列車の客の目をも嘆じさせようアプレ版メイ城」とあります。
2015-04-27 11:20:36@Sad_Juno 「アプレ版メイ城」は、直前の「名城再現!と市民を驚かせた」が…という枕に掛けての、戦後版名城ということなのだと思いますが、「メイ城」とカナになっているくらいなので、何か他に念頭にあるものがあるのかもしれません。
2015-04-27 11:22:20@Naukit 富山を訪れた際に富山城が戦後初の(模擬)天守(再建)との話を聞いていたので、木造広島城のことも初耳でした。 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9… いろいろ勉強になりました。あらためて、ありがとうございました。
2015-04-27 20:15:01@Naukit あらためまして、情報ありがとうございました。前掲書同ページで小畑さんは「テープをキー局からいただくので制作部はないに等しい」とおっしゃってますので(制作課ができたのは翌年とも)、多少の齟齬が見えるようですね。
2015-04-27 20:09:26@Sad_Juno 言及した『中国放送の50年』の35頁の記述の直前、「午前中の奥様向け時間帯とゴールデン・タイムの人気番組は、主にラジオ東京、朝日放送からのテープネット番組で、広告代理店制作の持ち込み番組以外は、すべて自社制作で埋めなければならない苦しい状況だった」とあります。
2015-04-27 21:08:10@Sad_Juno また、同頁の先の50%以上自社制作の言及箇所の続きには、「番組制作を担当する編成部員たちは、てんやわんやの忙しさだった」。編成部長自ら番組テーマ曲を作詞するなど「社員すべてがアイディアを出しながらオリジナリティーを発揮した」とあります。
2015-04-27 21:14:06@Sad_Juno 小畑さんは、のんびり仕事をしているうちに「そのうち」編成部長が「ピカドンクイズ」の企画を持ってきたとおっしゃっていますが、同番組は開局初日からありますから、時系列がおかしいですね。まあ当時にして40年前の記憶ですし、社史の方が美化されているのかもしれません。
2015-04-27 21:24:12@Naukit 小畑さんも「でもみんなすごく張り切っていましたですね。時間と空間を超越して、会社から一歩も外に出ないという人もいましたですね。(略)スタジオの中でも雑魚寝していて放送の中に鼾が入ったりね」ともおっしゃってますから、社員と嘱託の差もあったのかもしれませんね。
2015-04-27 22:38:45