田中ロミオをめぐる対話3
『イマ』論はそれなりに反響があったので、ついでに参考文献の話とか、入れたかったけどどうしても入れられなかった話について、少し書いておこうと思う。あまり需要はないと思うけど。
2010-03-06 22:04:18議論のバックボーンになっているのは、言うまでもなくレヴィナス。ただ『イマ』論のために読み直すのはめんどうだったので、以前、熊野純彦『レヴィナス入門』『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』をノートにとっておいたのを読み返して、あとちくま文庫『レヴィナスコレクション』をざっと読んだ。
2010-03-06 22:07:01ただ、全体としてはレヴィナスの思想そのものより、レヴィナスを下敷きにしたバトラー『生のあやうさ』の「可傷性」に関する議論に負う所が大きい、と言えるかもしれない。ただ、バトラーの「可傷性」論をそのまま使うと、可傷性が肉体の問題に限定されそうで、バトラーよりは広い意味で使っている。
2010-03-06 22:10:18ブランジョやレヴィナスはアウシュヴィッツという人格的な死の限界から思索を始めているので、人格に還元されない身体性が重要なポイントになる。それはそのとおりなのだけど、まあ、換骨奪胎してもいいかなぁ、と。『イマ』論では主体の脆さについて強調できればよかったので、脆さの原因を
2010-03-06 22:15:21身体的なものに原因する必要はないだろう、と思った。最初にデリダの話を書いてしまったので、それと繋げる必要があった、という理由もある。
2010-03-06 22:16:58「他者への応答」によって主体が構築されるという話は、酒井直樹『日本/映像/米国』に負う所が大きい。ただ、それに「亡霊」の話を絡めたのは自分のオリジナル……かな?酒井は戦争責任をめぐるドキュメンタリー『ゆきゆきて、進軍』を好意的に取り上げているけど、私はむしろ、それを観たときの
2010-03-06 22:20:33違和感を言語化してみたかった。主人公の奥崎はかつての上官が犯した戦争犯罪を追求するのだけど、最終的に奥崎は、その上官ではなく息子の方を殺そうとしてしまう。それはたぶん「勢い余って」という問題ではなく、過去の声に応えようとすると必然的にアドレスがずれてしまうという問題なのではないか
2010-03-06 22:23:28あと、直接引用はしなかったけど明らかに影響を受けているのが、ホミ・バーバ『ナラティブの権利』所収の「散種するネイション」、磯前順一「解説」。磯前先生からは超影響を受けてる。バーバの読み方もほとんど磯前先生に従っている、と思う。
2010-03-06 22:27:45磯前先生の『喪失とノスタルジア』からも超影響を受けてる。『イマ』論は(5)で書いた異質性による繋がりについて論じるために書いたようなものだけど、バトラー、バーバ、酒井、ナンシー、磯前といろいろ混ぜて書いているなかで、議論の骨子になっているのが磯前先生の『喪失と~』だったりする。
2010-03-06 22:31:17あと、そこそこ意識していたのが丸山真男「個人析出のパターン」という論文。近代の日本において「個人」が成立すると、個人が集まって結社を作るよりは、「原子化」「私化」してしまう、という話。
2010-03-06 22:34:14「原子化」した個人は寄る辺がないので、機会があると「ネイション」「郷土」といった既存の共同体によりかかって全体主義化してしまう。個人主義に「村」や「ネイション」のような既存の共同体を対置させると、それが全体主義へ動員する回路になってしまう。
2010-03-06 22:37:45「個人に先立って共同体が存在する」と考えると、全体主義に近似してしまうわけで、いかにしてその関係を逆転させるかについて考えてみたかった。「個人が共同体を作る」というか、個人として成立することが共同性の存在を証し立てている、という関係。
2010-03-06 22:39:53書こうと思って書けなかったこととしては、『攻殻機動隊』との類似点について。福嶋氏が攻殻の「ゴースト」と『イマ』の人格を比較して、攻殻は人格を本質主義的に捉えていると批判していたので、私は逆に『攻殻』を好意的に捉えてみたかった。
2010-03-06 22:43:06@tukinoha 攻殻のゴーストが本質主義的だとは不正確な読解だと思いますよ。正確には「どういう位置づけだかわかんないままに出てきて、しかもなにやら同一性があるっぽい雰囲気で終わった」という結構不確定な状態でしょうね。本質主義じゃねーの? とイラっときたんでしょうね福嶋は。
2010-03-06 22:46:02シロマサ版『攻殻』のゴースト観念は結構複雑で、個人がそれぞれ独立したゴーストを持っているようで「電脳を装備している者は全て草薙素子の同位体になってしまう」。時間についても「未来と過去は同じもの」であり「違うのは観る側」という台詞が出てくる。
2010-03-06 22:45:14じゃあ結局すべてのゴーストは素子の亜種でしかないのかと言えば、そうでもなくて「宇宙は非対称」である。難しい。『攻殻2』の最後に素子は「生老病死を持ちながら模倣子は完全に継続性を保つ」珪素生物と融合するけど、これもどこか『イマ』の群体的なものと似ているように思う。
2010-03-06 22:48:18@tukinoha と書いた後で、どうやら攻殻2巻の話をされていたようだ。2巻は、素子が分身が続々出てきて、ゴーストの一語がまったく出ない作品になってて、何気に断絶あるんですよね。私は、むしろああいう展開でこそ、ゴーストをもう一度展開させるべきだと思ったな。
2010-03-06 22:47:54あと押井版『攻殻』では人間と人形(=人形遣い=他者)との融合が問題になる。人間は他者との結合のなかでゴーストを発生させる。人間のなかに非人間が混ざっている。それでもなお人間と呼べるなら、それは何故か、というのが押井の関心。
2010-03-06 22:52:54シロマサが人間の視点から出発し、最終的にゴーストが集まった「非対称の宇宙」へと昇華していくのに対し、押井は非人間(宇宙とか人形とか)から出発し、人間の条件をさぐっていく。逆のアプローチ。『イマ』は日常編と戦争編でその両方をカバーしているのではないか、と。
2010-03-06 22:54:59神山版『攻殻』については、あまり興味がない。ゴーストについても「集合意識」くらいに考えているようだし。脳科学系の話も、聞きかじり程度で書けなくはないのだけど、まあ、別にいいかなと。福嶋氏が書いてたし。
2010-03-06 22:58:10『イマ』の日常編と戦争編をどう繋げるかについて、いまいち上手く書けなかった。「人類というのは隣の八さん熊さんのことだ」と内田鑑三が言ってるけど、隣の八さん熊さんを通して人類のことを考える、これがヒューマニズムなのだろう。日常編を通して戦争編について考えたい。
2010-03-06 23:02:10田中ロミオ論としては『腐り姫読本』の対談を読んでから書きたかったのだけど、手に入らないのであきらめた。誰か内容教えてくれないかな……。
2010-03-06 23:05:30あと、フーコーの仕事とレヴィナスを関連させようとする以上、アガンベンにも目を通しておくべきだったかなぁ、と。本棚に『アウシュヴィッツの残り物』が入ってるけど、まだ読んでない。
2010-03-06 23:09:04