山本七平botまとめ/【変革期にみる日本人の柔軟性/科学技術の導入③】無宗教的・擬似科学的・近思録的世界観の持ち主、日本人

山本七平『1990年代の日本』/変換期にみる日本人の柔軟性/科学技術の導入/科学・技術の導入/技術に対する柔軟性/138頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

⑯ただ中国人と違うところは、日本人の場合、以上のような発想と現実との観察が常に一体化していて、それが新しい発想へと飛躍している点にあるであろう。 柳泓の基本は確かに朱子学から来ているが、同時にそれを踏まえつつ自然を観察している。

2015-06-14 13:08:55
山本七平bot @yamamoto7hei

⑰彼の朝顔の観察は一種の人為淘汰による新しい種の創造の発見であり、それを逆に見て、環境という自然淘汰が様々な種を作り出したと見ている。 更に胎児が受精から出産までの間に進化の過程を経る事も彼は観察していた。

2015-06-14 13:38:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑱これは彼が医師であった為であろうが、この点では形而上学的な朱子学から経験的・実証的な科学的態度と進んでいる。 勿論その説は素朴で幼稚だ…が、これがダーウィンが『種の起源』を発表する四十年前に公刊され…禁書にもならず出版されかつ読まれていた事は無視すべきではないであろう。

2015-06-14 14:08:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑲以上が加藤弘之が強調する「科学」の背景の一つだが、こういう考えが出てくれば機械論的宇宙論が出て来て不思議ではない。 というのは朱子の考え自体が、形而上学的とはいえ機械論的な要素を含んでいるからである。

2015-06-14 14:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

①だが、布施松翁の『松翁ひとり言』は、柳法のような論述でなく、またいつごろの作かも明らかでない。 次にその一部を「機械装置(からくり)」「機械(しかけ)」として引用しよう。<『1990年代の日本』

2015-06-14 15:09:01
山本七平bot @yamamoto7hei

②【…竹田の道にさしかかり、四方の景色を眺めつつつらつら思ふに混然たる一気の機械にて何もかも滞りなく動く大自動装置(だいからくり)】 でこの文章は始まる。 続く文章では、人と自然とは田畑・森林・水路等によって全てが精巧なる機械が動くように巧みに動いているという描写があり、(続

2015-06-14 15:38:58
山本七平bot @yamamoto7hei

③続>それが時々うまくいかなくなることはあっても、まるで、ロボットがロボットを修理するように修理してしまうという次の記述につづく。 (…引用略…) このように世界には自動調節装置があり、人間もその中で生活しているわけだが、このからくり世界の中で人間はどのような位置にいるのか。

2015-06-14 16:09:01
山本七平bot @yamamoto7hei

④(…引用略…) いわば松翁にとっては、このからくりの中で、それにその身をゆだねているのが「自由」なのである。 こう考えれば、このからくりに抵抗すれば、あらゆる摩擦を生ずるがゆえに、確かに不自由を感ずるであろう。

2015-06-14 16:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤だがこうなると、人間の外に世界がからくりなのか、人間もそのからくりの一部で、人間自身が一つのからくりなるがゆえに、この、世界というからくりに適合しているのかわからなくなってしまう。 それならばいっそのこと、人間もからくりで、人間の感覚は細工と考えればよいのではないか。

2015-06-14 17:08:57
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥(…引用略…)柳泓にしろ松翁にしろ石門心学の系統の人、いわば町人哲学者である。 そしてこの一派は庶民教育を目的としたことは広く知られている。 もっともこの点で松翁は積極的ではなかったが、以上はすべて、学術書でなく啓蒙書なのである。

2015-06-14 17:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦そして柳泓のような考え方をすれば進化論は少しも不思議でなく、松翁のような考え方をすれば、この世の中にどんな便利な「からくり」を導入しても不思議ではない。

2015-06-14 18:09:07
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧そしてその「からくり」の導入で、世の中という「からくり」が変化したなら、自らもその中の「からくり」となって抵抗なく生きて行くことが「自由」だという発想になってしまう。

2015-06-14 18:39:01
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨こういう発想があれば、ロボットやOAという新しい「からくり」が導入されたとて、それを拒否する理由は全くなくなってしまうのである。 それが当然であろう。 さらに柳泓の進化論は、簡単に「社会進化説」に転じて不思議ではなかった。 進化論は科学であろう。

2015-06-14 19:08:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩だがそれをいとも簡単に「社会」に適用する事が果たして科学であろうか。新しい神話であろうか。明治が社会進化論にとびつき、穂積陳重が法進化論を主張したのも単にスペンサーの影響だけではあるまい。彼が若き日に受けた教育は朱子学であり、それが基本となっているであろう事は容易に想像される。

2015-06-14 19:38:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪【法律学は社会学の一部なり。社会学は生物学の一部なり。一切の生物既に進化の大則に依りて支配せらる。人類の群衆団結せる社会、何ぞ独り之を離るることを得んや】 この考え方には、キリスト教世界の伝統的な考え方は皆無といってよいであろう。

2015-06-14 20:09:04
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫ヴィクトリア朝、最盛時のイギリスに学んだ彼は、そこで矢野暢教授のいう「掘起し・共鳴現象」を生じ、相手の中に自己の文化的伝統と共鳴するもののみを見、相手から影響を受けていると思いつつ、自己の文化的蓄積の中から、それに似たものを掘起し、相手の言葉でそれを表現していたのであろう。

2015-06-14 20:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬これが明治に西欧の刺戟を受けて「社会進化説」となり、一種の「科学万能・絶対」的な発想となり、新しいものを拒否することはすべて「迷信」として否定される基礎を形づくった。

2015-06-14 21:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭従って日本に問題があるとすれば、 これが実は「科学ではなかった」という点、 同時にそれを「宗教と科学」という視点から捉えることもできなくなった という点にあるであろう。

2015-06-14 21:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

①ある意味ではこれらは徳川時代のエリート教育に基礎が置かれ、その基礎は明治の東京大学に引きつがれ、それを多くの大学が模倣し、これらの点に関する限り現代でも基本的に違わないから、日本人の多くが「無宗教的・擬似科学的・近思録的」世界観の持主であっても少しも不思議ではない。

2015-06-14 22:08:59
山本七平bot @yamamoto7hei

②そうなれば新技術の拒否はなくて当然である。 冒頭に述べたアラブ諸国のような問題は日本には起り得ない。 そしてこの点では「文科系」も「理科系」も差はない。

2015-06-14 22:39:03
山本七平bot @yamamoto7hei

③もちろん新しい科学上の大発見となれば別であろうが、その成果の利用に習熟してこれを機能させるという点では、特に教育上の差が生じるとは、今までの歴史的経過を振り返れば、到底ありそうに思えないのである。

2015-06-14 23:08:58
山本七平bot @yamamoto7hei

④また一般民衆、といってもこれは上記のような教育を受けた人々がほとんど全てだから、欧米やイスラム圏のような民衆は、現在の日本には存在しない。 そしてこれが存在した明治に於てすら特に拒否反応はなかったのだから、現在、何らかの理由で新たにそれが出てくることも逆に考えにくい。

2015-06-14 23:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤そして人びとが問題にする点があるとすれば、それが自分個人の生活に直接にプラスかマイナスかという点だけであろう。 反対があるとすればすべて、この点だけであって、神学的・思想的な点ではない。 だが明治の例では、この点さえ決して強くないのである。

2015-06-15 08:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥理由は、社会が要請しない限り、新しい技術は導入されないという点にあり、この要請を否定する思想的要件が、前記の伝統にないからであろう。 そしてこれが日本の強さか弱さかはまだ結論が出ていない問題である。

2015-06-15 08:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦というのは『近思録』のこの一篇にだけ影響を受けたとは考えにくく、 「朱子学的思惟は、いまだ神話的思考を脱却していない」(前記湯浅幸孫氏) のだから、 全日本が「科学的」という名の「神話的思考」から脱し得ない という面がある。

2015-06-15 09:09:15