SEALDsについて内田樹先生(@levinassien)と弁当師匠(@finalvent)の対照的な2つのブログ
デモで日本は変わるのか、変わらないのか
あずまんとか北田が「デモで社会は変わるや否や」とか寝言言ってる間に、ラーメン屋と解体屋とペンキ屋がデモに行く。結果が保証されてる場合にしか動かない人たちと、そうでない人たちの違い。その後者がお膳立てして「どうぞ先生も来てください」って言ってやってるわけ。使い出があるからね。
2015-08-28 01:58:20僕は、80年生きているので、戦争も、原爆も、天災も、原発事故も、学生運動も身を持って体験している。そのたびに国に対するデモを体験している。しかしね、結果からいうとデモで日本が変わったことは一度もない。だからこそ、8月30日のデモで大きく日本が変わるなどと言う幻想は捨てたほうがいい
2015-08-28 15:43:37で、本題
finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/20… blog.tatsuru.com/2015/08/24_075… 並べてみるとこれは弁当師匠のダメなところが出たなという感じがわたくしは致しますですね。(良くも悪くもコミュ障の本の虫で書いてあることそのまんま読むだけしかできないタイプであるなぁという気が
2015-08-27 18:23:26@odakin 初手から「民主主義国家なので」ってえーどこが?って思いますですわたくしは。そういうことになっている、と、そうである、は違うと思うんですよね。 (まーわたくしこの件はぜんぜん知らないで言ってるんでアレですけど。。)
2015-08-27 18:25:22@finalvent 別にそういうわけではないです。たぶんわざと分かろうとしてない部分があるのではないかな、と思いました。
2015-08-28 16:58:00私の感想
善悪は抜きにして、2つのブログを並べてみて強く感じたのは、内田先生は今回の件を「自分も当事者として」捉えてることがしっかり感じられる。他方、finalvent先生は「若者の未来は若者が決めること」としたうえで支援すべきかどうかを判断しようとしている。この立場の違いを感じ取った
2015-08-28 17:04:43そうやって外部の視点から見れば、良いところも足りないところもはっきり見える。ところが当事者意識があると、活動の最終的な帰結、成否は抜きにして「これが第一歩となりうる」という強い実感が得られるのだろう。
2015-08-28 17:06:47個人的には、「年老いた哲学者は退場すべし」というスタンスに私は居るので、内田先生が自ら活動に飛び込んでいくのはある意味苦々しく思えるけれど、生涯現役を貫く思想家としては一つの完成形ではないか。
2015-08-28 17:08:20いつの世も、革命の第一歩は10代20代の若者が、明確なゴールも見えない中、藻掻きながら切り拓いていくものなんだよね。そういう意味では30代の自分はもう蚊帳の外だわ。
2015-08-28 17:10:33ただ、革命の第一歩を切り拓く若者は多くの場合途中で倒れ、別の誰かが果実を手中にしていく。ナポレオンしかり、伊藤博文しかり。でも、それでいいんだと思う。そうやって人類は進歩していく。
2015-08-28 17:11:54だからまあ、SEALDsが失敗しようと成功しようと、「若者が自分で動く」という回路が一旦できた以上は、少しずつ「よりマシな」若者たちが出てきて働きかけを続けるだろう。内田先生はその一発目に自ら飛び込んだ。finalvent先生は、よりマシなものを待った。そういう理解をした。
2015-08-28 17:14:03恐らく内田先生も、SEALDsがベストだなんて書いてないし思っても見ないだろう。ただ、熾こった火の形が気に入らないからといって吹き消していては何時までも焚き火は作れない、そういうことなのかな。例え毒草の葉が入っていようと、火を熾こすことが必要……
2015-08-28 17:55:37そもそも、大正デモクラシーはなぜ戦争を止められなかったのかという問いの立て方がおかしいのだ。満洲事変以降の戦争は大正デモクラシーがあったことを前提になされたのだし、大正デモクラシー自身も日露戦勝を前提にしている。やっぱり大正デモクラシー論はまだまだ謎が多いのだ。
2015-08-28 17:45:42ただ、成田さんのように、大正デモクラシーの、あそこが弱かった、ここが不十分だったという議論にも与しない。歴史段階というのはそれが一つひとつ到達点なのだから、今の時点から見て不十分な点を上げるより、その到達点が達したことの意味と原因を解くことがまず大事なんだ。
2015-08-28 17:49:32人。この不思議さこの分からなさ、この連綿。私たちは連綿といsていて、連綿と失敗を重ね、やっぱり連綿として生きている。こうした連綿のうえに私たちは後代に私たちはこの人である。なるべくあからさまな失敗だけはしなくないものです。
2015-08-28 17:52:16