甲冑の歴史講座 その2 北條綱成公とはなんぞや?

第二回の講座は、北條綱成公にスポットをあてて解説いたします 地黄八幡の異名を持つ北條綱成とは一体誰でどんな人なのか・・・?
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北条楽市 @hojorakuichi

( 甲)さて、今回二回目の歴史講座 折角なのでお客様の中でご要望がありました、 地黄八幡こと北條綱成公 にスポットを当てようかなと思っております

2015-09-08 00:30:01
北条楽市 @hojorakuichi

( 甲)北條家随一の猛将にして、北條家一門として迎え入られるほどの高待遇の武将です さて、北條綱成とは一体どんな人なのでしょうか?

2015-09-08 00:34:48
北条楽市 @hojorakuichi

北条楽市プレゼンツ 甲冑の歴史講座 第二回 北條綱成

2015-09-08 00:39:32
北条楽市 @hojorakuichi

北條上総介綱成(福島綱成) 永正12年〜天正15年(1515〜1587) 72年という当時としてはかなり長く生きた武将である しかし、生まれてから北條家に使えるまではかなり苦労をしたようである

2015-09-08 00:49:42

綱成公の出自について

北条楽市 @hojorakuichi

北條綱成は永正12年に、今川家臣福島(くしま)正成の子として誕生 (これには異説があり後ほど紹介する) そのまま、福島氏の今川家臣となるかと思われたが福島正成以下一族の殆どが戦により全滅し、小田原に逃れる

2015-09-08 00:55:56
北条楽市 @hojorakuichi

( 甲)実は、福島氏が全滅した戦 1521年の対武田の戦である飯田河原の戦い及び上条河原の戦いに敗戦し武田信虎の家臣原虎胤に討たれたという説 そこから生き延び 1536年の今川家督相続による内乱(義元対玄広恵探)である花倉の乱で恵探の方を支持したために滅亡されたという説

2015-09-08 01:03:25
北条楽市 @hojorakuichi

この二つの説があったりするんです そもそも、父親の福島正成がどんな人かよくわかっていないのもある上、福島をくしまと呼ぶことから 1525年の武蔵白子浜合戦で戦死した伊勢九郎の説があったりします (これは伊勢九郎が櫛間を名乗っていたことから由来する)

2015-09-08 01:09:09
北条楽市 @hojorakuichi

一応、まだ通説である福島正成の子として今回はお話させていただきますが それならば1536年の花倉の乱で一族滅亡説が意外としっくりくるかなと思います 1536年は初代宗瑞(早雲)以来から続く今川と北條の蜜月関係が終わり、東駿河を巡っての戦に突入したからです

2015-09-08 01:14:40

第一次河東一乱と綱成公

北条楽市 @hojorakuichi

これは俗に言う 第一次河東一乱と言いまして 事の経緯は 花倉の乱で義元側を援助した北條家なのですが、義元が当主となった時に義元が外交革命を行い、先代の氏輝までの仇敵武田信虎の娘である定恵院を娶り、勝手に甲駿同盟を結んでしまいます

2015-09-08 01:20:54
北条楽市 @hojorakuichi

これには今まで一緒に対武田で戦ってきた北條家の怒りを買い、駿相同盟が破綻 北條氏綱は先代の宗瑞の頃に義元父にして先先代の氏親から興国寺城の領有を認められていたため、一帯は北條領であるとして突如東駿河の富士郡吉原に侵攻し、そのまま駿東を奪う事に成功する

2015-09-08 01:29:41
北条楽市 @hojorakuichi

駿東侵攻と義元への対立の為に、反義元でありその為花倉の乱で滅亡した福島氏の生き残りの綱成を登用し、氏綱の諱である綱をもらいさらには氏綱の娘を与えられて一門として迎え入れられたのではと考えられる 要は、駿東における福島氏の影響力を鑑みての政治的判断といえるわけだ

2015-09-08 01:34:52
北条楽市 @hojorakuichi

( 甲)実際、綱成は北條氏綱が駿東に侵攻した年の天文6年(1537年)に対上杉戦でデビューを果たしているんですよね 時期にしては出来すぎているわけでして、やはり政治的動きの中での高待遇なのかなと思います

2015-09-08 01:41:26

玉縄城時代の綱成公

北条楽市 @hojorakuichi

その後、綱成は玉縄城城主にして氏綱の子為昌の後見役に抜擢されます 実際、綱成の方が5歳年長であり、1537年に後見役となっていた場合、為昌はまだ17歳、氏綱は22歳という若いコンビとなるわけです ただ、為昌はその後病気となり、25歳という若さで死んでしまいます

2015-09-08 01:47:54
北条楽市 @hojorakuichi

なので、玉縄城城主の穴を埋めるべく綱成を形式的とはいえ、為昌の養子として、小田原北條氏から玉縄北條氏となり、以後綱成の一族は玉縄北條氏として宗家小田原北條氏を支えていく事になります

2015-09-08 01:51:10
北条楽市 @hojorakuichi

ただ、ここにも政治的動きがあったみたいで 為昌が死に、綱成が玉縄北條氏になる前年の天文10年(1541年)に当主にして義理の父に当たる氏綱が死去します その時、家督で少し揉める事となります

2015-09-08 01:55:24
北条楽市 @hojorakuichi

次期当主にして綱成の義理の兄に当たる氏康は相続当時家臣からあまり評判が良くなく、次子にあたる為昌も病気で息絶え絶え、こんな中白羽の矢が立てられたのが氏綱の娘婿にあたり智勇抜群の綱成であり、実際彼を当主に押す動きがありました

2015-09-08 02:00:06
北条楽市 @hojorakuichi

結局は前当主氏綱嫡男の氏康が当主になりますが 為昌が死んで彼の名跡を継がせたのは、その影響力を鑑みて玉縄北條氏という傍流に埋め込む事でまた家督相続によるイザコザを回避しながら、その影響力を氏康の物として還元しようとしたのではと考えられます

2015-09-08 02:04:30
北条楽市 @hojorakuichi

( 甲)ただここだけの話し 氏綱生前に家督を氏康に既に渡していたという説もあり、この話しにはあまり信憑性がないのではと甲冑は思っています・・・

2015-09-08 02:07:40

北條五色備えと綱成公

北条楽市 @hojorakuichi

さて、綱成の話しに戻ります 後見役となった綱成は北條五色備えという精鋭軍団の一つ、黄備えを担当する事になります 北條五色備えとは北條家の軍事の中核として活躍した五人の家老がなるものでして 白、黒、青、黄、赤の五色からなり北條当主の旗にはこの五色が並んだ旗が備えてあった

2015-09-08 02:15:56
北条楽市 @hojorakuichi

1059do.com より拝借 こんな感じに五色で分けられていたと言われています pic.twitter.com/aNSxKPlxq2

2015-09-08 02:24:10
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北条楽市 @hojorakuichi

では、この五色備えは誰が担当していたのか 白備え 笠原康勝 黒備え 多目元忠 青備え 富永直勝 赤備え 北條綱高 黄備え 北條綱成 この五人がそれぞれ担当していました この五人はそれぞれその五色備えに相応しい活躍をしており、特に綱成と似た境遇の綱高はゲームにも出ない

2015-09-08 02:32:04