ヨハネ受難曲(BWV 245)のコラールと自由詩を読む
第一部
以前マタイ受難曲読み解き的なものをやってみてわかったこととして、第一曲目の合唱が全体を通してのガイドラインになっていること、というのがあったのだけれども、ヨハネ受難曲のテキストにおいても概ね同じことが言えて、思想的なエッセンスは第一曲目でちゃんと示されている。
2015-09-14 23:18:03Herr, unser Herrscher, dessen Ruhm
主よ、私たちの治め主よ、あなたの名誉は
あらゆる土地で称えられています。
示してください、あなたの受難によって
あなたは真の神であって
あらゆる時に
この上ない蔑みにあった時にさえ
栄光を称えられていたことを
マタイ受難曲では第一曲目に「来なさい、共に嘆こう」というように「来て、嘆いて、悔い改める」のが全体を通してのテーマになる。作詞家はおそらく別人物ながら、ヨハネ受難曲の場合は「大いなる蔑みの時にさえ、あなたは栄光を称えられていた」と示されていて、これが全体を通したテーマになる。
2015-09-14 23:23:08教義的なものを抜きにしても、「自分を救うために犠牲になった人」というのに対して人はどういう感情を抱くかというと、一方で感謝しながらも、一方で悔いる、というところになるだろう。
2015-09-14 23:28:35イエスの死(と復活)によって我々は救われたのだ、というのが教義なわけなのだけれども、それをどう受け取るか。「我々のせいで」という見方なのか「神の意志によって」という見方なのか。ヨハネ伝はどちらかというと後者を強調する傾向にある。
2015-09-14 23:36:45それに合わせる形で、音楽的主題も「神の意志によって」「成し遂げられた」ことに感謝したり、称えたりするのが中心に据えられているというのは間違いないだろう。
2015-09-14 23:39:10都合(ということになるのだろうけど)、聴衆が感情移入して痛みを追体験する性質の強いマタイ受難曲の自由詩と比べると、聖書の言葉通りに神の意志によって為されたことに感謝せよという点を強調するヨハネ受難曲の自由詩のほうが、舞台側なのか聴衆側なのかが明確で、我々的には読みやすい。
2015-09-14 23:48:40逆の見方をすると、感情の発露よりも会衆が信仰を歌う点に重点を置いているわけだから、ソロアリアとコラールの比重はマタイとヨハネで逆になっていて、ヨハネのほうが合唱の重要度が高いともいえるかもしれない。
2015-09-14 23:51:40O große Lieb, o lieb ohn alle Maße
おお、大いなる愛、何を持っても測れぬ愛によって
あなたは責め苦の道へと導かれました
私は世俗にあって快楽と喜びのうちに生きていました
それゆえあなたは苦しまねばならなかったのです
(ちょっとコラールも丁寧に読んでいくことにした。)一曲目O grosse Lieb。イエスを捕えに来たファリサイ人たちに、イエスが「他の弟子は行かせてやりなさい」と言っているのを受けて「ああ大いなる愛」と歌うわけなのだが、このシーンは受難の始まりなわけで、もう一つ意味合いがある。
2015-09-15 00:06:34「人々を救おうとする愛ゆえに」ここから始まる一連の受難へと彼は自ら進んでいくのだ、という点で、かつ、それは「私を捕えれば済むのなら弟子たちは行かせてやりなさい」といった愛と同質のものだということだ。このコラール自体受難週用なのだが、とりわけこの節を選んだ意図はそんなところかと。
2015-09-15 00:11:05Dein Will gescheh, Herr Gott, zugleich
あなたの意志が行われますように、主なる神よ
地上においても、天の国と同じように
苦難の時には忍耐をお与えください
愛と苦しみにあって従順でいられるように
すべての肉と血から護り、導いてください
それはあなたの意志に逆らうものだから
続いて二曲目Dein Will gescheh。兵隊たちに抵抗しようとするペトロを諫めて、「これは父が与えた杯なのだから、私が飲まないで良いということがあろうか」といった直後で、このことを歌っている。
2015-09-15 00:16:42杯を飲む=受難の道を進む、のことで、「父なる神の意のままに受難へと進むイエス」と同じように「苦難の時に私たちにも忍耐をお与えください」。そ
2015-09-15 00:19:52Von den Stricken meiner Sünden
罪の縄目から
私を解き放つために
救い主は縛られました
私をすべての悪徳の瘤から
残すところなく癒すために
彼は自らを傷つけたのです
で、次がアリア一曲目のアルトVon den Stricken。このアリアはいきなり少し特殊で、その直前のカイファの台詞「一人の人間が民の身代わりに殺されるなら好ましいことである」を、カイファの意図するところとは別の意味で読み替えて歌っている。
2015-09-15 00:22:46カイファがこの台詞を言う意図はヨハネ伝のもう少し前(11:47-53)を読むとちゃんと書いてあって、「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」それよりは彼ひとり殺したほうがマシだ、と言っている。
2015-09-15 00:27:51一方で、キリスト教の教義的なところでは「イエス一人が死ぬことで、すべての人が救われる」わけであるから、別の意味で「一人の人間が民の身代わりに殺されるなら好ましいこと」だというわけ。なので、「罪の縄目から私を解き放つために縛られた」「私を癒すために自らを傷つけた」がここにくる。
2015-09-15 00:33:08Ich folge dir gleifalls mit freudigen Schritten
私もまた、喜ばしい足取りで、あなたについて行きます
そしてあなたを放しません
私の命、私の光よ
歩みを励まして
止めないでください
私を引き寄せ、背中を押し、招くのを。
で、アルトアリアの直後、「シモン・ペトロと”もう一人の弟子”はイエスの後について行った」のたった一文を挟んで、ソプラノアリアが置かれている。内容も「喜んでついて行きます、あなたを放しません」というだけなのでパッと見なぜこんな配置をしているのかは不可解。
2015-09-15 00:39:02ペトロがこの後イエスを否定して逃げていくのは知られているものとして、かつペトロについては後で嘆きのアリアがあるのだから、このソプラノアリアは”もう一人の弟子”を歌っていると考えていいだろう。で、この”もう一人の弟子”というのはだれか。
2015-09-15 00:42:35