平泉・柳之御所遺跡保存運動の記録

堤防に潰される運命にあった平泉・柳之御所遺跡(奥州藤原氏の政庁・平泉館と推定される)。多くの人々の努力によって保存に至るまでの動きを紹介する。
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奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

【今日は何の日?】 ・平成5年(1993):建設省、奥州藤原氏の政庁・平泉館と推定される柳之御所遺跡を潰して建設予定だった堤防とバイパスの計画(一関遊水地事業)変更を決定。数年来の保存運動が実を結び、柳之御所遺跡の保存が決まる。

2014-11-26 07:09:12
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

清衡「さて、昨日26日は平成5年に『一関遊水地事業』計画が変更され、危うく壊されるところだった柳之御所跡の保存が決まった日だ。少々長くなるがしばらくその顛末について語ろう」

2014-11-27 00:01:44

柳之御所とはなにか?

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

清衡「『柳之御所跡』は北上川の西岸に隣接する藤原時代の建物跡のことだ。もっとも我らの時代には『柳之御所』という言葉はなく、江戸時代あたりにかつて義経殿が住んだ所という実際とは異なる話が流布し、将軍の住まう所すなわち『柳営』と思われたのが由来だという」

2014-11-27 00:11:26
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

清衡「しかし結局『柳之御所跡』が藤原時代の何の建物跡かは不明だった。研究者の間ではここが藤原時代の政治の中心、『吾妻鏡』に書かれた『政庁・平泉館(ひらいずみのたち)』ではないかと憶測されていたが、70年代に小規模な発掘調査が行われるのみだった」

2014-11-27 00:16:27
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

秀衡「平泉館については『吾妻鏡』には 「金色堂の正方、無量光院の北に並べて宿館を構う[平泉館と号す]」 とありますな」

2014-11-27 00:19:57
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

清衡「その柳之御所跡の隣を流れる北上川は藤原時代以後、何度も河道を変えている。小規模な調査でたいしたものが出ないことから、遺跡の主要な部分はすでに北上川に沈んだと研究者の間でも思われてきた。そのような中、80年代に遺跡の真上を通る堤防と道路の建設が決まる」

2014-11-27 00:26:09

柳之御所遺跡の出現

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

清衡「堤防と道路建設に先立って柳之御所跡に本格的な<緊急発掘調査>が行われることとなった。この<緊急発掘調査>というやつだが、工事前に調査して記録が終わったら埋めてしまうことを前提に工事事業者が資金を出すもので保存は考慮しない。しかし調査が始まるとすぐに驚くべき結果が出た」

2014-11-27 00:28:54
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

秀衡「その時の歴史学者達の興奮具合を斉藤利男氏の『平泉-よみがえる中世都市』(1992年/岩波新書)から見てみましょうぞ」

2014-11-27 00:33:16
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

『「一九八八年十一月~奥州藤原氏三代の居館の跡がみつかったという知らせがとびこんできた。~「今年からはじまった本格調査で、御所跡のまわりを巨大な堀がめぐっていることがわかり、みごとな橋の跡も出た。遺物も京都・鎌倉におとらない立派なものだ。とにかくすごい遺跡だから、ぜひ見にこい」→

2014-11-27 00:37:45
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

→  東北各地からかけつけた研究者とつれだって現地をおとずれたのは、十一月二十四日。おりあしく激しい風雨のふきあれる日だったが、その日、私たちは、靴を泥だらけにしながら、日のくれるまで発掘現場を歩きまわった。」』

2014-11-27 00:41:03
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

清衡「十万平方メートルの柳之御所跡の土中から現れたのは、遺跡を囲む上幅七~一〇メートル、深さ四メートルの堀であり、堀の内側からは掘立柱建物跡、十八基の井戸、内堀、園地跡、地鎮祭跡などの遺構であった」

2014-11-27 00:45:56
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

清衡「さらに大量の中国産や国産の陶磁器、内耳鉄鍋等の鉄製品、十トンを超える当時の食器「かわらけ」、祭祀具、文字や絵の記された折敷なども出土した。発掘の初期段階だけで奥州の歴史だけでなく古代から中世の生活や祭祀儀式を知る上で重要な遺構や遺物が出土したわけだ」

2014-11-27 00:53:00
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

泰衡「折敷とは食器の下に敷く木板でメモ代わりにも使われたもので、私や国衡兄者の元服前の名および家臣の名前が記された『人々給絹日記』と題される貴重な折敷が見つかったのもこの時です」

2014-11-27 00:54:55

水害の町

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

清衡「学者らはむろんこの遺跡の重要性を訴え、工事計画の変更を求めたが、すでに多くの金を費やした堤防は遺跡の百メートル手前まで迫り調査が終わるのを待っていた。このような国の大きな事業の計画変更は容易ではないということだな」

2014-11-27 01:01:54
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

泰衡「また治水は周辺住民の切実な願いでもありました。平泉は記録にある江戸時代以降、三年に二回の割合で洪水に見舞われるようになっていたのです。一部の地区の家には脱出用の船までありました。私たちの時代にはこのような水害はなかったのですが……」

2014-11-27 01:06:26
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

泰衡「今でこそ柳之御所遺跡のすぐ隣を流れる北上川ですが、衛星写真を使った「航空考古学」というもの分析によりますと、今より1.5キロほど東を流れていたため水害の心配も無かったようです」

2014-11-27 01:13:16
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

泰衡「住民の思いは複雑だったでしょうが、治水は必要なものの藤原時代の重要な遺跡が破壊されるのは郷土の人間としてしのびないという気持ちもあったことでしょう。そのようなわけで、保存運動は遺跡か治水か二者択一ではなく、両立を目指すようなものになったわけです」

2014-11-27 01:19:15
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

泰衡「さて、長くなりました。この続きは明日の夜にやるとして、今はここまでとしましょう。お休みなさい」

2014-11-27 01:24:41

力を結集、保存運動のうねり

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

泰衡「昨夜呟いていた柳之御所遺跡保存運動の顛末について、今から続きを流します。また長くなると思いますが・・・・・再び鍵を閉める今夜12時前までにはなんとか終わらせたい・・・と・・・思います・・・・」

2014-11-27 22:37:20
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

清衡「保存運動はまず学者が個人で論文や新聞紙上に遺跡の重要性と保存を訴える文章を書くところからはじまった。その後、岩手考古学会はじめ各歴史学会が相次いで保存要望の声明を発表する。また東北在住の歴史学者らが集まり平泉文化研究会を結成し運動に取り組むようになる」

2014-11-27 22:43:59
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

清衡「下流の一関市では一般の民を中心に北上川の会が結成され学者の運動に合流。中尊寺と毛越寺は一山をあげて地元民や観光客に遺跡の重要性を説き、保存を要請する署名を22万以上集めた。平泉町内でも商工会や有志団体が遺跡の保存を前提にした堤防建設への計画変更を国に求めた」

2014-11-27 22:48:12