【2015.10.27】アウグスト・フォン・グナイゼナウ元帥誕生日祝賀会
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10月27日はプロイセン軍元帥アウグスト・フォン・グナイゼナウの誕生日です
【お知らせ?】 21時過ぎくらいから「グナイゼナウ元帥誕生日記念」ということでアカウントジャック(という名のなりきり)をされてみます。お暇な方はお付き合いください
2015-10-27 20:04:32「アウグスト・フォン・グナイゼナウ」について
ナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウ(独: August Wilhelm Antonius Graf Neidhardt von Gneisenau, 1760年10月27日 - 1831年8月23日)は、プロイセン王国の軍人、陸軍元帥である。ゲルハルト・フォン・シャルンホルストと共にナポレオン支配から脱却を目指したプロイセンの軍制改革者の1人で、現在も各国軍に設けられる参謀本部の先駆けとなったプロイセン参謀本部の創設者でもある。
ナポレオン戦争の同盟軍の勝利に貢献し、イエナ戦役で壊滅したプロイセンを再び強国に導いた。
(以上、日本語版ウィキペディア『アウグスト・フォン・グナイゼナウ』より引用)
「誕生日ですしアイコン変えましたし、折角の機会なので!」と言われたからな。アカウントの主の気が済むまでツイートしていくぞ。
2015-10-27 21:27:36「プロイセン参謀本部の知名度上昇のためです、質問も受け付けちゃってください!」とも言われたな。こんなに無理難題を押し付けられたのはルイーゼ・ヘンゼル嬢との罰金遊びに負けた時依頼じゃないか?
2015-10-27 21:33:27補足『ルイーゼ・ヘンゼル嬢との罰金遊び』について
19世紀前半はベルリンサロンの古典期であり、文化人だけでなく、政治家や軍人もサロンによく集まっていました(時期的にもナポレオン戦争中〜直後だったので尚更)。グナイゼナウもまたサロンによく出席していた軍人の一人です。
この『ルイーゼ・ヘンゼル嬢との罰金遊び』というのは、ナポレオン戦争後の1815年以降、エリーザベト・フォン・シュテーゲマンがサロニエールを務める集まりでのグナイゼナウのエピソードが元ネタ(ただし1816年7月以前はグナイゼナウはコブレンツでライン軍司令官をしていたので、それ以降でしょう)。
グナイゼナウはシュテーゲマン家の控えの間で行わていた賭け事に参加するのが大好きだったそうです。ですがある時、サロン参加者の一人のルイーゼ・ヘンゼルに罰金遊びで負けてしまいます。
ルイーゼはその時、まず戯れのつもりで彼の持つ最高勲章を求めます。多分彼は断ったのでしょう、次にルイーゼは若い時の話を聞かせて欲しいとせがんだそうです。グナイゼナウは承諾し、後日彼女と友人にだけ、辛く苦しかった若い頃の話を聞かせたのだとか。
(詳細や当時のベルリンのサロンの様子については『ベルリンサロン』に詳しいです)
グナイゼナウの来歴
生い立ち
私のフルネームはナイトハルト伯爵アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウだ。スペルは「August Wilhelm Antonius Graf Neidhardt von Gneisenau」、所謂二重姓だ。
2015-10-27 21:41:57実家はザクセンの裁判官、地方公務員などを出していた。因みに私の父上はザクセンの砲兵中尉。 しかし何と言うか……貧乏だったのでな、父の代から似たような名字の貴族の家と関係があるようなふりをしてたらしい。それで私も二重姓を名乗っている。
2015-10-27 21:47:07そう言えばクラウゼヴィッツも同じようなことを父の代からやってるとか言ってたな。 クラウゼヴィッツ(Claußewitz)は元を辿ればポーランド系に行き着くらしい。本人はポーランド大嫌いだったが。
2015-10-27 21:48:55私は家族で初めてプロイセン軍に任官したが、最初はアンスバッハ・バイロイト辺境伯に騎兵として任官した。でもあろうことか、辺境伯が自軍をイギリスに払い下げてしまった。それでアメリカ独立戦争に参加したんだ。勿論イギリス側でだが。
2015-10-27 21:54:48アメリカから帰ったのは1786年だ。辺境伯のところが単調だったのもあって、すぐにプロイセン軍に移籍した。でもプロイセン軍もプロイセン軍で、手柄を立てる機会も無かったから、ずっとシュレージェンの守備隊にいた……20年位。ボナパルトが戦争を仕掛けて来なければ、そこで終わったかもな
2015-10-27 21:59:24ナポレオン戦争勃発
イェナ・アウエルシュタット会戦でプロイセン軍は破局を迎えた、とよく言うが、その後もティルジット条約締結まで戦闘は頻発した。私が参加したのはコルベルク戦だ。
2015-10-27 22:09:05詳しいことは割愛するが、コルベルク戦は本格的な攻囲戦だったらしく、「殆ど勝ち目がない」とまで言っている学者までいる。私がコルベルクに指揮官としてやって来たのは包囲開始から1ヶ月後だったが、私は工兵隊を指揮して条約締結まで持ち堪えることに成功したんだ。
2015-10-27 22:16:40