皇帝フリードリヒ3は無能だったか? +ハプスブルク家雑記まとめ
- tomoshibi6o6o
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中世の君主は移動しながら統治したし、マクシミリアン1世もそうだった。 しかし父帝フリードリヒ3世は異なった。ほとんど帝国外に出たことも、親征したこともなかった。 代わりに動いてくれる、かつ有能なザクセン公アルブレヒト3世や息子のマクシミリアンといった人物がいたからだ。
2017-08-19 09:54:53皇帝マクシミリアン1世、借金を理由にインスブルック市の滞在を拒否される(死の目前?)件、その後に「直前まで出席していた帝国議会で選帝侯や帝国諸侯から敬われたのに、自分の臣民から見くびられるとは」と激怒したそう。
2017-08-18 18:38:04マクシミリアン1世は英気盛んだった一方で、軽信であり変心が多かったという欠点があった。 性急なあまり準備や配慮を欠き、しばしば失敗を招いた。 マキャヴェッリはマクシミリアンに謁見し、この皇帝を 「朝方の決定事を夕刻にはしばしば覆す」と批判している。
2017-08-18 18:44:36シャルル8世の侵攻によるイタリア戦争は、 ミラノと関係性を強め、十字軍を行おうとしたマクシミリアン ナポリ王国を抑えて地中海を掌握し、十字軍を行おうとしたシャルル8世 と、2つの十字軍構想が重なっていたのか。
2017-08-18 18:49:29中世的な十字軍構想がぶつかった結果、起きたのがイタリア戦争であると。
2017-08-18 18:51:54レンス判告(1338年) 選帝侯は「ドイツ王に選ばれたものは同時にローマ皇帝にとなる」ことを宣言した内容。
2017-08-18 18:53:25マクシミリアン1世、神聖ローマ帝国諸侯を「ドイツの野獣ども」と言ってて草が生えた。
2017-08-18 18:55:14まーたこの本でも「マクシミリアン1世がスウェーデン王位を伺った」と書いてあって
2017-08-18 18:57:43マクシミリアン1世が獲得しようとしたもの ローマ教皇 ハンガリー王 スウェーデン王←New!
2017-08-18 18:59:24夢の「オーストリア=スウェーデン」同君連合の可能性…
2017-08-18 18:59:48いやスウェーデン王位に就くならカルマル連合を崩さないといけない訳だけど、スウェーデン独立を支援して王位を確保ってことかしら。
2017-08-18 19:00:28マクシミリアン1世、孫カール(5世)を 「狩りを好むところ以外、自分にまるで似ていない」 と痛烈に言ってて笑った。
2017-08-18 19:03:29皇帝マクシミリアン1世の崩御後、次の皇帝にハプスブルク家からは家門のパワーバランスを鑑みてフェルディナンド1世を出すつもりだったが、 「皇帝の位は、世界を統べるためのもっとも良き称号にござります」 との重臣の進言を受けて、カールが出ることになった、と。
2017-08-18 19:07:01カール5世が70以上の数多の称号を羅列して記したのは、 「…虚栄心の故のように見えるかもしれないが、すべての諸王国を同じものとして考えてはならないということをはっきりと理解させるためのものだった」 という解釈(アラゴン王国要覧、1588年)
2017-08-18 19:14:16「異端者だらけの国よりは、荒野を統治したほうが良い」 皇帝フェルディナンド2世
2017-08-18 19:28:47マティアス、プロテスタントを重用してボヘミア王位、皇帝位を得たものの、それが皇帝威信の低下を招き、ショックにより失望と無力感に襲われて体調を崩したとか君主の器じゃなかったのでは…
2017-08-18 19:32:37結果として従弟フェルディナンド大公のボヘミア王選出に同意せざるを得なくなり、更にその結果としてフェルディナンドがマティアスの重臣を失脚に追い込ませ、失意の中マティアスは没することになった。
2017-08-18 19:35:04英版wikiにフリードリヒ3世の新情報
左足の壊死により切断手術を受ける皇帝フリードリヒ3世。 (1493年6月8日) 皇帝は糖尿病ないし動脈硬化症に侵されていたとされる。 皇帝は8月19日に崩御したが、死因はメロンの食い過ぎによる下痢が、足の切断の疲労が抜けていなかった老いた身体に重くのしかかったためと考えられる。 pic.twitter.com/p6Fktk0StZ
2017-11-02 20:28:33崩御時、息子マクシミリアンは戦線に立ってたために葬儀は遅れ、12月まで伸ばされた。 皇帝の体はウィーンのシュテファン大聖堂に、内蔵はリンツ教会に葬られた。 墓の彫刻は1467年に依頼されていたが、完成したのは1513年になってからだった。
2017-11-02 20:31:54マクシミリアンが伝記を書かせたり肖像を描かせて皇帝権威を広めようとしてたけど、これも源流はフリードリヒ3世にあると言えそうだ(続)
2017-11-02 20:33:54皇帝フリードリヒ3世の時代、紙に関する技術が発達し、皇帝のために納入された文書の総数は3万〜5万部と推定され、皇帝は歴史家を雇って、「神聖ローマ帝国とオーストリアに」自らの伝記を埋め込むことを望んだ。
2017-11-02 20:36:55歴史家として雇ったのは他ならない、神父ピッコローミニ(後の教皇ピウス2世)と、エバンドルファーという人物。 彼らはフリードリヒ3世に後継者がいなかった(弟アルブレヒト6世との争いで権力が揺らいていたことを示す?)こと、(その騒動の過程でフリードリヒ3世が逃げたことを指して)→
2017-11-02 20:40:53「けち」「無能」「優秀不断」と書き残してしまい、この2人の著名な歴史家は揃って1464年に亡くなってしまった! (弟アルブレヒト6世は1464年12月に死去したばかりのことだった!) 結果、フリードリヒ3世の汚名が残り、現代に至るまで語られるようになった。
2017-11-02 20:43:34更に言うと、ピッコローミニは教皇ピウス2世として、フリードリヒ3世に十字軍遠征を要請したものの断られた、ということがあったとも付け足しておく。
2017-11-02 20:44:30