セカチュウを受け取り損なってしまった。物語の奇跡に出会えなかったわけだ。

物語って奇跡のことだから、一生かかっても書けるものではない。だからみんな物語の終焉というのだ。私が、当時、セカチュウを観なかったのは、同年のドラマ『彼女が死んじゃった。』にハマり過ぎたからだ。私はドラマは、音楽が良いと、繰り返しリピートで観てしまう。映像喚起的というより、物語が音楽を喚起するからだろう。しかし、『世界の中心で、愛をさけぶ』(原題『恋するソクラテス』)は、より音楽的だった。2004年から12年もたってやっと一昨日、初めて観たのだが、それは物語の一つの奇跡だったのだ。 形あるものの歌という禅問答に、傘で応答し、送れなかったお爺ちゃんが送られていくためだけに、彼女は物語から退場させられる。そして弔辞ではなく、最後の禅問答がソラノウタとして書かれたのに、それを17年受け取り損なう物語。このように、奇跡は必ず誤配されてしまう。まるで脱構築の魔法が解けるように。 続きを読む
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

米文学はオースター以後、日本へは村上春樹のアンチオースターか、オースターのオマージュしかなくなっていたが、セカチュウは間違いなく、オースターマスターピースである『ムーンパレス』からイメージを膨らませた、メタフィクだ。@08child

2015-12-01 15:48:41
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

『世界の中心で、愛をさけぶ』は、オースターが偶然と孤独を、キティーウーの喪失、祖父(叔父)の哲学、砂漠へのさまよいとして物語った『ムーンパレス』の日本版だ。どうりで原作が柴田元幸翻訳体だったのだ。まるでオースターの骨を世界の中心に散骨するようだった。@08child

2015-12-01 15:49:00
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

文学は、オイディプスのメタファーやメトニミーやアレゴリーのことだが、セカチュウがオイディプスでは語れない本来的な形而上学を語らせているのがなぜか、やっと分かった。ムーンパレスではオイディプスが葬られていたから。@08child

2015-12-01 15:54:14
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

セカチュウ原作、オースターのムーンパレスを日本版にすると、どうなるかから発想してるから、一度読んでみ。ムーンパレスがオイディプスを克服した先が、形而上学として語られているから。twitter.com/sunamajiri/sta… @LitoSnowfield

2015-12-01 15:56:51
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

原作ではオーストラリアのシーンが、何もかも失って西海岸の砂漠を歩き続けるポール・オースターの『ムーンパレス』のようだ。そうすると祖父はエフィングのようだ。アキはキティーウーのようだ。そこから人物造形していると思った。@08child

2015-12-01 15:33:21
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