「かんこく」は何故「韓」と書くのか? 三国志の歴史書『魏略』が語る「冒姓韓氏」の意外なルーツ 古代中国の植民地から「韓国」はこうして生まれた!?

前漢に降伏した旧朝鮮国の官僚の韓陰らは、権力を保全され、中国の植民地「楽浪郡」の役人として、はかなくも強かな”韓”伝説をつくり上げた!「韓国」(新羅などの三韓)の民族自立以前の歴史
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「韓国」の由来。何故、「韓」と漢字で書かれているのだろうか?

巫俊(ふしゅん) @fushunia

「韓国」の国名の由来は、既に『三国志』に引用されている『魏略』(曹操の魏の歴史書)に出てくる。「魏略に曰く:其の子及び親の留まって国に在る者,因りて韓氏を冒姓す。準(衛氏朝鮮に敗北して逃走した箕氏朝鮮の箕準)は海中に王たり。朝鮮と相(あ)い往来せず。」

2015-09-17 16:02:51
巫俊(ふしゅん) @fushunia

あっ、すいません。『魏略』の「その子や親の国に残ったもの」の国とは、「朝鮮国」(半島北部)のことでした。王(箕氏)が逃げていった土地は「韓」(半島南部)だけど「韓氏の姓を冒(おか)して名乗った」人たちがいたのは「朝鮮」(半島北部)です。箕氏朝鮮→衛氏朝鮮→前漢の楽浪郡に変化します

2015-09-17 16:22:31

秦末の内乱で、衛氏朝鮮に滅ぼされた先代の王朝(箕氏朝鮮)の王が脱出して、南に「韓」を建てたと信じられていた。

巫俊(ふしゅん) @fushunia

当時の中国では、朝鮮(現在の朝鮮半島北部を指す当時の国名)の外側にある「韓」(半島南部)の地域について、その地の人たちが韓氏を称しているのに疑問を感じていた。「韓」とは、本来は中国の姓(正しくは氏)で、張良が仕えた戦国の韓氏一族だとか、西周の諸侯のなかにも韓という国があった。

2015-09-17 16:08:37

朝鮮(衛氏)は滅びて、漢の楽浪郡となる

巫俊(ふしゅん) @fushunia

これらの記述から読み取れるのは、衛氏朝鮮と前漢が戦争になったので、元の国主の一族の箕氏としては、衛氏から国を取り戻したいと思う気持ち(対漢協力)と、漢に国を取られるという恐怖があったということですね。

2015-09-17 16:26:26
巫俊(ふしゅん) @fushunia

結局、朝鮮国は前漢の楽浪郡に編入されてしまったので、旧国主の一族は韓氏を名乗って、楽浪郡の官吏になったということだと思います。韓氏の名前が書かれた遺物が楽浪郡の遺跡から出土しています。そして、韓氏にとっては海中に去っていった自分たちの王がいるはずの場所を「韓王の土地」韓と呼んだと

2015-09-17 16:32:07
巫俊(ふしゅん) @fushunia

そして、『三国志』魏書、東夷伝、韓の条に「(箕準は)その左右の宮人をひきいて走りて海に入り,韓地に居り,自ら韓王を号す。その後絕滅す。今、韓人なおその祭祀を奉じる者有り。」と出てくる状況になります。韓王の一族は絶えてしまい、実際の韓は集落が散在する国でした。

2015-09-17 16:37:19

王が絶えた“韓” 象徴になった“韓”

巫俊(ふしゅん) @fushunia

そのため、「韓」というのが、去っていた王がいるはずの憧れの土地というか、象徴的な意味合いを帯びるので、楽浪郡吏たちに積極的に使用される地名になり、漢の側でも地域名の「韓」が機械的に承認され、三国時代になると、三韓、つまり半島南部の総称に発展してきました。

2015-09-17 16:48:07
巫俊(ふしゅん) @fushunia

クリックすると読めます。 tufs.ac.jp/common/fs/ilr/… 論文「朝鮮半島における言語接触―中国圧への対処としての対抗中国化―」(伊藤 英人 、東京外国語大学『語学研究所論集』、2013年)

2015-12-26 15:11:13
巫俊(ふしゅん) @fushunia

さて、『三国志』東夷伝が書かれた頃には、地域名としてすっかり定着している「韓」(三韓)ですが、司馬遷の『史記』やそれ以前の時期の古典では、そんな様子でも無いんですよね。実は「韓王」の話も、『三国志』に初めて出てくるものです。

2015-09-18 02:54:58
巫俊(ふしゅん) @fushunia

『三国志』東夷伝には、韓の条とか倭人の条があって、有名な「魏志倭人伝」(俗称で、正式名称では無い)はこの倭人の条のことです。

2015-09-18 02:57:50

漢の成長とその限界

巫俊(ふしゅん) @fushunia

最近読んだ『後漢書』関係の論文によると、『史記』や『漢書』の段階では、前漢王朝が領土を広げ、両粤(りょうえつ、南越国と東越国のこと)や朝鮮を滅ぼして、今では蛮夷の諸国が中国と一体になっていくことに関心があるそうです。

2015-09-18 03:05:34
巫俊(ふしゅん) @fushunia

ところが、後漢時代になると、四夷(四方の異民族)を統制する能力に限界が感じられるようになります。王莽の「新」の失敗もあり、匈奴こそ従えることができたものの、内地の羌や蛮(武陵蛮や長沙蛮)の反乱に苦しんだので、かえって「四夷」を意識することになります。

2015-09-18 03:11:03
巫俊(ふしゅん) @fushunia

ただ、『後漢書』は、実は『三国志』よりも成立が遅い歴史書なので、『史記』『漢書』に続く東方世界の情報は、『三国志』から得ることになります。そこでは、魏が完全に内地化できなかった「韓」が出てきます。

2015-09-18 03:13:47

後漢建国の光武帝、その理想

巫俊(ふしゅん) @fushunia

「倭人」や「韓」の存在は、後漢のさいしょの光武帝の頃からはっきりと表に現れる存在です。光武帝にとっても、討伐を必要とせずに外交関係(朝貢)を結べる「韓」や「倭」は、海の向こうからも自分の徳を慕って人がやってくる「平和な理想時代」を演出するのに好都合なものでした。

2015-09-18 03:18:55
巫俊(ふしゅん) @fushunia

その後漢時代の蓄積を経て、「韓」や「倭人」の情報をまとめたのが『魏略』と『三国志』です。そのため、「楽浪の韓氏」は中国の政界にデビューしてもう久しいものがあるし、いつの間にか、「韓王」とか「三韓」の名前が定着している、そんな状態で記録されてるんですよね。

2015-09-18 03:23:45

前漢に降伏して、権力を保全された旧朝鮮国の官僚「韓氏」

巫俊(ふしゅん) @fushunia

楽浪郡の郡吏として、大いに栄えたという楽浪の韓氏は、『史記』朝鮮列伝に出てくる「朝鮮相の韓陰」(衛氏朝鮮国の首相のひとりの韓陰)の子孫とされます。この人たちは前漢に降伏して、地位が保全されました。

2015-09-18 03:33:33
巫俊(ふしゅん) @fushunia

朝鮮列伝を見ると、中国風の姓を持っている韓陰もいれば、衛氏朝鮮の属国の相の参のように、姓を持っていない人もいます。韓陰が完全な中国系の人だと簡単には断言できませんが、それなりに中国化している、つまり当時は高い技術で知られた中国文化にアクセスできる人たちだったことが分かります

2015-09-18 03:38:12