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ワイ、荀彧を熱く語る

可愛い小鳥がひとりさびしく荀彧を語った。
歴史 荀彧 曹操 三国志 後漢
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Jominian @Jominian
@Golden_hamster 確かに、鄴を落としてから間髪入れずに冀州牧になっているのは、「当塗高」が念頭にあったんだろうな。
ネットインコ @Golden_hamster
@Jominian 「当塗高とは魏である。魏とは冀州である」と曹操で繋げることも可能になるからな。ただ、はっきり「魏公」となってしまうと「ワイが当塗高や」と名乗るようなもので露骨かもしれんな。どう考えても曹操自身の意向で魏公になっとるわけやし。
ネットインコ @Golden_hamster
荀彧がアレされる前年、魏郡を拡大するという命が下っている。 これは荀彧の例の反対より前のことと思われるから、荀彧は曹操が魏郡の君主(魏公)となること自体は認めていたということだろう。
ネットインコ @Golden_hamster
「荀彧は曹操が魏郡公となることは認めていた」「漢に代わる者を表していると言われる預言『当塗高』の解釈の一つが『魏』」ということを組み合わせると・・・荀彧は以下略
ネットインコ @Golden_hamster
荀彧は曹操が魏郡(のみの)公となることは同意していたわけだから、たぶん董昭(というか曹操)から10郡の公にするんだぞ的なこと言われたことが反対の主な理由だったんだと思う。九錫が問題だった可能性もあるけど、領土欲全開にしか見えないことが荀彧には最大の問題点だったのでは
ネットインコ @Golden_hamster
荀彧は「皇帝になれば天下すべてが領土なんだから領土欲まみれにしか見えない10郡の公はやめろ。評判悪くなる」と言いたかったのでは。ただ曹操たちにしてみれば統一して即位する前に死んじゃうこと考えるとできるだけ大きな国の君主になっておきたい。評判を落とすリスクを負ってでも。
ネットインコ @Golden_hamster
この時の荀彧の考えを再現すると、「評判は極力落とさずに曹操の爵位を上げる(ことで功臣たちの恩賞の望みもかなえ)、天下統一に邁進する丞相という肩書を生かして早く諸国を平定し曹操を皇帝にする」ではないか。そのためには10郡公は評判を落とすだけでむしろマイナス。
ネットインコ @Golden_hamster
ただもう曹操の側がたぶん早期の統一を半ば以上諦めていて、「次の代になっても天下取りが継続できる地盤づくり」を優先したい状況になっていたんじゃないかと思う。そのためには逆に10郡公が必須になる。これは丞相や州牧や太守や将軍などと違って世襲制で皇帝にも勝手には取り上げられないから。
ネットインコ @Golden_hamster
もし本当に荀彧・曹操どちらもそんな考えでいたとしたら、どうやったって話が合うわけがない。荀彧としては張良などが劉邦を諫めて変心させたように曹操もわかってくれると期待したのかもしれないが、曹操サイドとしては荀彧の影響力を大規模に行使されるとまずいので速攻で潰しに行ったというところか
ネットインコ @Golden_hamster
「荀彧って曹操のことを本気で皇帝にしたいと思っていたからこそ魏公に反対したんじゃないか」と思い至ったことは自分の中の三国志観においては転機の一つであった。割とマジで。
ネットインコ @Golden_hamster
ちなみに10年近く前、実質的にはいまはなき2ちゃん三戦板の荀彧スレでの話であった。
ネットインコ @Golden_hamster
『歯車がガッシリと「世界」とかみ合ったのを実感した』みたいな瞬間って、一生に1度か2度くらいなら俺みたいな凡俗でもあるんだと思うんだよ。俺にはそれがその荀彧の話だった。かもしれない。
ネットインコ @Golden_hamster
@sosokan そもそも、曹操と荀彧が最後仲違いしたとしても、根本的に曹操の側に立っていなかったとするのは早計ですよね。現代だって政府内で権力闘争とか起こりますが、だからってその一方が野党の回し者だとは思わないのに。
ネットインコ @Golden_hamster
@sosokan ありがとうございます。場合によっては政権内部での闘争や政治路線を統一するための更迭劇などだって思いのほか激しくなったり大事になったりすることもありますよね。曹操と荀彧の関係もそれだったように思います。
ネットインコ @Golden_hamster
@mamesiba195 荀彧は曹操に対して漢の高祖となれ、と言っていますからね。しかし漢の高祖は楚の懐王の将であったものが皇帝になったわけですから、楚を後漢皇帝にあてはめているわけです。
まめ @mamesiba195
@Golden_hamster ただ、問題は、懐王は項羽が殺してくれたからいいですが。荀彧としては、献帝の始末をどのようにする予定だったとお考えですか?
ネットインコ @Golden_hamster
@mamesiba195 これは想像になりますが、それを言った頃は献帝はまだ洛陽に戻る前のはずなので、関中・三河の諸軍閥間の紛争でうまいこと亡き者になることなどを期待したかもしれませんね。そうならなくても、史実のように皇帝を手中にした上で禅譲というのも考えていたでしょう。
まめ @mamesiba195
@Golden_hamster この段階で、失敗した王莽の真似をして禅譲を考える、そこにうまい説明があればいいかなと考えております。
ネットインコ @Golden_hamster
@mamesiba195 d.hatena.ne.jp/T_S/20141006/1…にあるように、建安最初期の段階で、献帝の太史令が漢の命脈が尽きている、曹氏にゆだねるべきだ、と言ったという記録があります。素直に信用してよいかは疑問はありますが、これに近い状況はあったのかもしれません。
ネットインコ @Golden_hamster
@mamesiba195 あと王莽は生きている皇帝本人の自発的意思では禅譲を受けていませんからね(高祖の神霊から譲ると言うお告げを受けたという設定)。今度は生皇帝の生禅譲だから王莽の時とは違う、といった理屈も成り立ったのかもしれません。
ネットインコ @Golden_hamster
@Rieg__Goh 献帝のそばでどう考えても曹操よりに動いていたヤツが曹操に屈しない忠臣ってちょっと無理がありすぎるんだよなあ・・・
陸合 @Rieg__Goh
荀攸と荀彧の荀氏における家格の差に着目した場合、共通の知人である何顒との付き合いが参考になるかもしれない。荀彧が「王佐の才」と言われたのは、何顒が漢朝を倒す気満々のアウトローの頃と思われる。逆に荀攸は、党錮が解除され、名士の一人に名を連ねた何顒と仲良くなったのではないか。
ネットインコ @Golden_hamster
@Rieg__Goh だいたい、党錮になっていた荀攸と反政府レジスタンスだった何顒と共にいたという時点で荀彧が漢王朝を純粋に守る立場として見るのが難しい気がしますな
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コメント

巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年1月5日
>自分の中の三国志観においては転機の一つであった 私もそれまで信憑性を疑問視していた記事が『三国志』東夷伝にあったんですけど、あることをきっかけに、ハッとなりました。しかし、疑問視されているような記事のことをこれから説明していくのは重荷です・・・
まめ @mamesiba195 2016年1月16日
荀彧が漢王朝忠臣であったかどうかの考察です。次第次第に明らかになる真実を、名菓カラーひよこさん(てぃーえすさん)が解き明かします。最後の論文は、その説を完全に強化するものでした。
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