- korekorebox
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これは単純な二袁の争いというレイヤーだけで見るべきではなく、この方面への陶謙の部隊派遣は、大司馬劉虞及びその尖兵としての公孫瓚勢力への協力と見るべきではないか、という。(恐らく大本は例の青州黄巾賊への対処を公孫瓚と協力しようという流れからだったのではないかとは思っているが。)
2016-02-14 16:38:23そしてその対価として陶謙は公孫瓚らが管轄しようとしていた青州の一部の郡国の管理権を求めたのでは? それに続く次の経過がその推測を強めるものと俺は見ている。
2016-02-14 16:38:33袁紹と公孫瓚の間の争いは董卓斃れ、また王允斃れて李・郭政権となった長安より太傅馬日磾と太僕の趙岐が遣わされ,馬日磾から分任された太僕の趙岐がこの両者の間を取り持つこととなり、一時的な休戦状態が現出する。
2016-02-14 16:38:46ここで後漢書光武十王列伝の東海恭王伝を見よう。もとの恭王はすっ飛ばしてここから。「立三十一年薨,子懿王祗嗣。初平四年,遣子琬至長安奉章,獻帝封琬汶陽侯,拜為平原相。」
2016-02-14 16:38:52ほぼ訳:子の懿王となる劉祗が嗣いだ。初平四年,子の劉琬を遣わして長安に至らせ章を奉じさせたため,獻帝は劉琬を封じて汶陽侯となし,拜して平原相と為した。
2016-02-14 16:38:59この時期に陶謙は袁紹も公孫瓚も文句を言えない自勢力にある東海王の子の劉琬を平原相に就けさせたのだ。劉備が平原相から外れたのはこれを受けてのことだろう。
2016-02-14 16:39:05実は陶謙のこの緩衝地帯に自勢力内にある國の王族を太守・相に送りこんで自勢力に取り込もうという動きは、その前の反董卓連合イベントの時に遡る。
2016-02-14 16:39:15この時は時の琅邪王劉容の弟劉邈を長安へ遣わして反董卓連合に加わっているわけでないと朝廷への忠誠をあらわすためというのが第一の目的だった訳だが、そこで劉邈を九江太守にして貰うようにしている。
2016-02-14 16:39:23「【後漢書琅邪孝王京伝】(中略)據立四十七年薨,子順王容嗣。初平元年,遣弟邈至長安奉章貢獻,帝以邈為九江太守,封陽都侯。」
2016-02-14 16:39:33ほぼ訳:(中略)據が立つこと四十七年して薨じ,子の順王である劉容が嗣いだ。初平元年,弟の劉邈を遣わして長安に至らしめ章を奉じて貢獻させたところ,帝は劉邈を以って九江太守と為し,封じて陽都侯とした。
2016-02-14 16:39:40そういう訳で陶謙の下に前の九江太守服虔が居たりする訳だ。 ただまあこの九江太守の件は後に琅邪に伝手と繋がりを持つ袁術によって好いように利用されて破綻し、袁術と陶謙の仲の破綻へ繋がるわけなんだけど。
2016-02-14 16:39:58何だろう、割とかなり重要な事項をツイートした積りだったのに反響薄い。 大体こういうときは、3,4年してから俺がドヤ顔で再ピックアップする羽目になる。 多分。
2016-02-16 22:46:25ちな琅邪王劉容の弟邈が長安へ行った件は陶謙ばかりでなく曹操の親父も絡んでるようだ。 ということも付け加えて置けば何か違ったのかな。
2016-02-16 22:46:39