自民党改憲案が、「個人」という用語を「人」に置き換えていることに対する、歴史学者、住友陽文氏の批判。

個人主義は、利己主義やわがままではないことは、100年前の日本の青年も理解していた。
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住友陽文 @akisumitomo

①「個人の尊重」の「個人」というのは、もちろんindividual(これ以上分割されないものという意味)を明治になって日本語に翻訳して作られた言葉。「誰それの子ども」とか「どこの出身」とか、その他学歴や宗教や性別の差ではなく、全き個人として尊重するということ。

2016-03-06 11:34:30
住友陽文 @akisumitomo

②確かに「個人」は翻訳語で、自民党憲法改正草案のQ&Aにも現行憲法の「翻訳口調」や天賦人権説を嫌っていることがわかる。しかし、「尊重」すべきとされた「個人」が翻訳語だからといって、「個人」をおろそかにして社会や国家を作ることは、できないのは当たり前ではないか。

2016-03-06 11:35:48
住友陽文 @akisumitomo

③自民党憲法改正草案ではどうか? その「個人」にかえて「人」を採用している。では、「人」とは何か? 草案のQ&Aなど総合的に判断して、その「人」は日本の伝統・文化・郷土を大事にして社会に迷惑をかけず家族や社会との調和を重んじる者のことだと言える。それはすでに「裸の個人」ではない。

2016-03-06 11:37:58
住友陽文 @akisumitomo

④逆に言えば、日本の「伝統・文化・郷土」を尊重しないとみなされたり(国旗・国歌に敬意を表さないとか)、自己の生き方や権利を尊重してほしいと主張する者を家族や社会との調和を乱す者だとみなされると、それは憲法で保障する権利の「人」としては尊重されなくなるわけだ。

2016-03-06 11:39:21
住友陽文 @akisumitomo

⑤憲法の基礎にはやはり「個人」を置くべきで、「伝統・文化・郷土・家族」のような、人それぞれ向き合い方や意味が異なり、解釈によってどうとでもとれるものに依存する「人」は基礎にできない。そういうものは憲法ではない。自民党憲法改正草案の前文がとても軽く見えるのはそのためだ。

2016-03-06 11:40:21
住友陽文 @akisumitomo

⑥僕は日本史の研究者として、戦前の個人をめぐる認識や思想について少しばかり調べたことがある。例えば、個人をめぐっては次のような考え方を披露した青年たちがいた。瀬戸内海地方の田舎の青年だ。以下、関連のツイートを4つほど続ける。

2016-03-06 11:41:45
住友陽文 @akisumitomo

⑦戦前の広島県沼隈郡(現、福山市)に修養団体である先憂会というのがあって、その機関誌として『まこと』が発行されていた。修養団体の機関誌であっても、大正期の誌面を見るとリベラルな内容のものも散見される。M郎という沼隈郡内の青年が国家主義を説く別の青年に反論を試みた文章がある。

2016-03-06 11:42:33
住友陽文 @akisumitomo

⑧M郎は例えば次のように述べる。「吾等は、個人を除いて其所には一切の道徳、人情の存し得ない事を知つてゐる。道徳は個人としての自覚、換言すれば其の人の人格として心にある超越的の絶対的な要求の必然に自発して始めて其の意義と価値を有つのである」とか……。

2016-03-06 11:43:45
住友陽文 @akisumitomo

⑨また、「自己の人格を尊重する権利は同時に他人の人格を尊重する義務を伴つてゐるものである。これは他より与へられ或は授けられた権利義務でなくて我等の心理的事実によつて出来た価値や感情の発現であるのである」といったぐあいに。出典:M郎「国家主義宣伝者へ」(『まこと』1917年6月)。

2016-03-06 11:46:02
住友陽文 @akisumitomo

⑩このように今から100年前の地方青年でさえ、「国家ありき」ではなく、個人の尊重というところから世の中の仕組みを組み立てる必要があるということを理解していた。しかもそのような言論が、修養団体の誌面に掲載される。だから今さら個人主義は利己主義だなどというのは、幼稚極まりないのだ。

2016-03-06 11:48:04
住友陽文 @akisumitomo

⑪個人主義が自分勝手で利己主義だなどという認識は、とうの100年前にすでに克服されていたのだ。もっと有名人の言葉で知りたければ、与謝野晶子の著作集にあたって彼女の随筆を読めばよろしい。「人」などを前提にするのは前近代的だし、それでは憲法になっていかない。

2016-03-06 11:48:48
住友陽文 @akisumitomo

⑫日本国憲法は米国が日本に民主主義を伝授してできたものだと言うが、決してそうとばかりはいえない。この憲法が前提にしている「個人」認識は、19世紀半ば以降、社会の営みや人々の思想のなかでもまれ、すでに戦前で、国家の基礎として尊重するに値するものとして築き上げられてきたものだ。(了)

2016-03-06 11:52:09
住友陽文 @akisumitomo

なお、既述した先憂会の『まこと』掲載の諸資料については、この3月に福山市から刊行される予定の『福山市史 近代現代資料編(4) 社会・生活』に収載されています。

2016-03-06 11:58:57