古代の女帝持統天皇と大津皇子の事件そして彼女の即位を巡る素人の個人的な考察等
- tenkaichu_
- 33380
- 58
- 2
- 1
ある時代では悪人扱いだったのに時が経つと共に再評価されたりと時代と共に歴史上の人物の評価も変わってゆく訳だけど 大友皇子って、近江朝を崩壊させて政権を維持できなかった情けない皇子〜みたいな扱いされてた時代もあったのかな?
2016-02-18 17:32:57大友皇子が皆に支持されず壬申の乱で敗れ去った理由は、母親が皇族でないのに彼が即位したせいで皆がそっぽを向いたとかじゃなくて、天智天皇がメチャクチャな政治をした皺寄せが一気に来たが正解だと思う
2015-12-19 18:55:07弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年)- 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)または 伊賀(いが)。明治3年(1870年)に諡号を贈られ天皇として認められたが即位したかどうか定かではなく大友皇子と表記されることも多い
大友皇子は天智天皇の長男で壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)と皇位を争った相手です。
二十代半ばの若さで命を落としており、十分悲劇的な人物だと思うのですが、
何故か大津皇子ほどその悲劇性を語られる事が無いような気がします。
大友皇子は天智天皇の第一皇子である。逞しく立派な身体つきで、風格といい器量といい、ともに広く大きく、眼はあざやかに輝いて、振り返る目もとは美しかった。(中略)皇子は博学で、各種の方面に通じ、文芸武芸の才能にめぐまれていた。はじめて政治を自分で執り行うようになったとき、多くの臣下たちは恐れ服し、慎み畏まらない者はいなかった。
引用 講談社学術文庫 懐風藻〈現代語訳〉より
大友皇子は日本書記の編纂を命じた天武天皇に敗れた皇子なので
彼への賛辞は正史である日本書記には記されていません。
懐風藻は記紀に記されてる天地開闢からの物語をベースに序文を記してるのに、ちゃっかり書記が全力で隠蔽してる箇所をポロッと書き残してて面白い(?)よね
2016-06-02 00:57:42完全にただの妄想でしかない説なのですが、ひょっとしたら書記や懐風藻が編纂された当時、文字の読み書きのできない下々の人々から誰よりも惜しまれていた悲劇の皇子は大津ではなく大友皇子だったのではないでしょうか?
2016-06-04 16:10:23モブ1「淡海帝(天智天皇)の息子の大友皇子ってものすごく頭の良い賢い皇子だったらしいなー なのに壬申の乱で命を落として気の毒だな~」 モブ2「何言ってんだ大友皇子は死んでねぇよ東国へ逃れたんだよ!」 モブ3「そーだそーだ!」 モブ1「えぇっ!?」
2016-06-04 16:17:32妄想激しい最早ただの思いつきに近い説なんだけどね しかし朝廷の者は勿論下々の人々まで大津一人 だ け が同情され惜しまれていた〜とテンプレみたいに考えられ続ける空気には納得できないのです
2016-06-04 09:18:51大友皇子と高市皇子 純粋にこの二人の関係性だけに注目すると、若くして亡くなった悲劇の皇子とオッさんになるまで生きて国を統治した権力者…と見事に勝者と敗者なのに、高市の方が十市と悲劇の恋人イメージとか悲劇性をつけられている場合が多いような…
2016-06-26 00:10:44別に、高市皇子の事を悪く言って欲しい訳じゃないけど、息子の代ではともかく本人の代では間違いなく勝ち組だったよね?って考察してると、なんで大友とイメージ逆転してんだよ!って激しくツッコミを入れたくなってしまうww
2016-06-26 00:20:53大友と高市の奇跡のイメージ逆転 鸕野は可愛い孫に皇位を継承させたがったクソババアイメージとの兼ね合いでこうなってしまってる部分もかなりありそう
2016-06-26 00:38:05かぐや姫で比定される帝について新説?
史実で挙げられるかぐや姫で求婚したとされる帝の候補(※女帝が多かったおかげで消去法でかなり絞られる) 天武天皇 文武天皇 高市皇子←NEW
2015-12-10 20:55:44かぐや姫に求婚した帝に比定されるのって天武天皇と文武天皇の二人のどちらかだけど 高市皇子も候補に入るよねって話 前ツイートした事があるのですが、 検索したら即位した草壁皇子ってパターンの物語もあるらしい???
2016-03-15 20:04:45天武天皇・高市皇子がロリコンになってしまう。
●ここまで読んでくださってありがとうございました。●