#カジュアルヴォート を物凄く簡単に言えば、いくら投票に行こうと呼びかけたって根底に一人一人がよく考えた上で個としてしっかりとした結論を出して投票しましょうという観念がある限り無理ですよと。適当に信頼できそうな人の投票行動に乗ることを含めて適当に何となく投票する事、それで構わない
2016-06-10 22:06:12カジュアルヴォートによって他者の投票に「乗る」ことに誰もが躊躇しなくなれば、頭のいい考える人たちのより深く考える動機付けにもなると思う。カジュアルヴォートによってプラトンの考えた哲人政治と民主主義による衆愚政治のちょうど中間が実現されるのではないか?
2016-06-10 22:26:49近代以前、皆が生活のために行っていた仕事や作業も、近代の賃労働と同様、大半は手段的な活動ではあったのだろうが、効率を犠牲にして好きにする自由があった分、遊びの要素もあったのでは無いか。 しかし競争による効率化の要請で、仕事は、遊びの要素が排除された労働に化したのだ。
2016-06-11 13:24:58民主主義にしても、近代そのものの問題性について語らねば無意味な気もする。哲人政治(一人の哲人王による独裁政治)というのはプラトンの考えた、ひとつの究極理想であり、それを万人に適用したのが林雄介氏や苫米地英人氏の考えるようなみんなが大学卒か大学院卒の知性を身につければいいという話。
2016-06-11 21:02:31続き)これは民主主義の成立に個の確立が必要という、いわば近代の枠組みの中で近代のやり方でやるという発想が前提になっており、そこに無理がある。哲人政治という究極理想を、たとえばカジュアルヴォートのようなポストモダン的手段を用いることにより近代という呪縛を乗り越えられるのではないか?
2016-06-11 21:12:26続き)カジュアルヴォートについて言えば、ものを考える少数派と考えない多数派という構造が生じるのは近代資本主義国家では変えようがないのではないか?その構造条件において「民主主義」を達成するには少数派の頭のいい人に乗り、利用するというポストモダン的手段に拠るほかないような気がする。
2016-06-11 21:16:49プラトンの「哲人政治」(究極理想) アリストテレスの民主主義は衆愚政治に至るという認識(冷厳なる事実) 古代ギリシャまで遡り、この両極を押さえた上で民主主義なるものを考え、単なる近代の足場に留まる民主主義運動でなく、ポストモダン的な民主主義運動が興らねばならない。#民主主義
2016-06-11 21:23:10カジュアルヴォートと言っても別に何か難しいことを勉強する必要があるとかそんなことはなくて、単にSNS等で頭のいい人(例:ばたお氏)の投票行動に乗るというだけのこと(笑)、それくらいは誰でもできるでしょう。だからSNSというのはそういう市井の頭のいい人の考えとかを読めるというのが、
2016-06-11 21:32:04プラトンの哲人政治と似てるのがイスラーム学徒の中田考氏の「カリフ制こそが唯一の回答」というのがあるんだけど、それはたしかにひとつの究極理想であると思う、そしてそれを踏まえた上で、カジュアルヴォートのようなポストモダン的な中間的現実的な何かとかを考えるべきじゃないかとも思うのです。
2016-06-11 21:38:21プラトンのイデア、それは究極的理想といってもいいし、政治的には最大限綱領と言ってもいいかもしれない。つまりは哲人政治にしてもカリフ制にしても共産主義にしてもそこから演繹して様々なる現実的回答を見出すべく参考とすべき哲学的概念のような気もする。考えよう!
2016-06-13 02:50:42頭のいい人たちやアルファーツイッタラーの人たちはノブレス・オブリージュとしてSNSで自らの投票行動を公表すべきではないか?海外だと言論人やジャーナリストはどこに投票したか普通に公表する。たしかによく考えれば隠すことでもないのだがなぜか日本人は隠す(笑)。日本的な現象ではないか?
2016-06-11 22:55:38哲学について考えるときに英語の原義を探ることはひとつのヒント・手がかりになるような気がする。casualという言葉ひとつとっても日本語で表現すればたくさんの意味となる。もしかするとこの言語の非対称性ゆえに生じるズレとそこから生じる繋がりこそが神の与えた慈悲なのかもしれない。
2016-06-13 02:22:47ようするに近代という枠組みの中で近代的原則を用いて行われる全ての行為は近代の制約を免れ得ない。であるからして目的とするところが近代を超えることにある場合は、非近代的つまりポストモダン的ありようが有効であり肯定されるということではないか?カジュアルヴォートもそうだし左翼運動もそう。
2016-06-14 01:47:49やっぱし近代の本質というのは削ぎ落として一本化していくみたいなイメージだと思うな。資本主義も社会の風潮もどんどんそういうイメージで悪化していく。だからこそ近代を超克するために、時に手段としてポストモダンを用いるのが正しく、それこそがポストモダンの本質ではないか?
2016-06-14 02:41:06続き)つまり近代とはそれ自体が間違っているというよりもポストモダン的手段を用いていないことにあるのかもしれない、つまり欠如だ。ポストモダン的手段を肯定するカジュアルの哲学をもって近代は真に完成品となるのではないか?そうして「近代」と前近代がポストモダンにより融合し真の近代となる。
2016-06-14 02:46:17近代を超克するためには多様性を肯定するカジュアルの哲学に依るポストモダン的手段を用いたほうが良いというのは、充足の最適化の哲学にも通じる気がする。
2016-06-14 03:00:25東氏の提唱したカジュアルブロックというのも近代を超克するような本質があるといえるのかもしれん。気軽にブロックし気軽に解除することも含むと言ってたから、つまり絶対的な拒絶や断絶の否定なのかもしれない。だからむしろブロック機能どんどん使ったほうがいいってことじゃないかな?
2016-06-14 03:05:21ブロック機能というのは一度ブロックしたら永久に解除できないわけではないのだ。解除することだって出来る。その単純な事実=ブロック機能の本質に東氏は気づき、ブロックというのはそんな冷たいもんじゃないよと言いたかったのではないか?そこがカジュアルブロックの重要な本質だと思う。
2016-06-14 03:13:20近代により社会が人の多様性を認めず排除していく風潮にあるとするならば、LGBTやアスペの解放運動もまた近代の超克の運動として位置づけられるのではないか?そして彼らの社会的許容はただ肯定される、カジュアルの哲学において。なぜなら多様性に溢れたほうが社会は豊かになるからだ。
2016-06-14 03:17:49哲人政治にしてもカリフ制にしても共産主義にしてもその実現不可能性こそが本質であり、不可能であることに価値があり尊いのではないか?理想と最悪状態の中間をこそ求めるべきような気もする。そしてそれが正解のような。まあでもカリフ制に関しては過去に存在していたわけか。
2016-06-14 03:58:23カジュアルという言葉自体が軽薄な意味合いでネガティブに捉えられることが多いと思うんだよね。そうではなく、カジュアル(casual)という概念をポジティブに捉えなおすということがカジュアルの哲学の一側面であると思う。カジュアルというのはポストモダン的な概念を含む言葉なんだっていう。
2016-06-15 22:41:15続き)言葉というもの自体が言語の非対称性(英語を日本語で解釈すると多様な意味となる)から見ると様々な意味を含み、通念としてネガティブに捉えられているものもポジティブな概念とし捉えなおすことが可能(少なくとも新たな概念を見つける契機となりうる)だということも、
2016-06-15 22:44:07