日曜形而上学 D.ルイスのquidditism~トマスにおけるquidditas

とある哲学系クラスタの優雅な日曜。本日は、デイヴィッド・ルイスの哲学的立場である“quidditism”に関する質問を皮切りに、トマスにおけるquidditasにまで遡って考察する。
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しんじけ @shinjike

理想的でもあるし、それが哲学研究としてあるべき誠実な姿だと思うのは、わたしだけだろうか。

2011-02-14 07:46:38
しんじけ @shinjike

想像力とは何か、知性的形象とは何か、わけがわからないから哲学するのである。たとえそれが、感覚と知性をつなぐ認識上の伝統的分類にすぎないとしても、歴史的にそれが何なのかは単なる設定として片づけられても、わけがわからない以上、哲学的には問う意味が発生するのではないか。あれ、厨二病か?

2011-02-14 08:21:11
Adam Takahashi @adamtakahashi

@shinjike 「想像力とは何か、知性的形象とは何か、わけがわからないから哲学するのである」>仰るとおりです。私の意図は、そういうことを問うのが重要ではないというのではなく、それらが問題として浮上した前提や背景をまず考慮する必要があるだろう、ということでした。

2011-02-14 18:24:36
Adam Takahashi @adamtakahashi

昼ごはんを食べていたら、ふらっと(?)、名著『可知的形相』の Leen Spruit 大先生が研究室に現れた。。。どこかで会ったことがある顔だと思っていたら、ウォーバーグで二年前に会っていたのだ。彼は、自らアヴェロエス派を自認していたことを付記したい。

2011-02-14 20:58:13
しんじけ @shinjike

@adamtakahashi 「それらが問題として浮上した前提や背景をまず考慮する必要がある」というのは、まさしく仰る通りです。勉強すればするほど、そのことを痛感いたします。いやあ、しかし、17世紀の哲学は、想像力の問題で、死屍累々という感じですね。おたがいがんばりませう!

2011-02-14 21:00:53
Adam Takahashi @adamtakahashi

中世の「可知的形象」云々の Philosophy of Mind (と言えるとして・・・)と、デカルト以後のそれとを大きくわけるのは、consciousness の問題が大きいと思うのですが、SEP に便利な記事が登場していた。http://bit.ly/cqM7L4

2011-02-14 21:23:19
縮限 @contractio

[philosophy] 〈此性/何性〉でよいではないか。 / Togetter - 「日曜形而上学 D.ルイスのquidditism~トマスにおけるquidditas」 http://htn.to/kjqeou

2011-02-15 01:05:55
Adam Takahashi @adamtakahashi

@contractio 〈此性/何性〉でよいではないか。>御意。

2011-02-15 01:43:43
縮限 @contractio

ねー。 RT @adamtakahashi:〈此性/何性〉でよいではないか。>御意。

2011-02-15 01:48:55
@shinjike

以前のquidditasをめぐるツイート、言い忘れていたが、「可能世界」というのが、重要な分水嶺になるのかも。他方で、ライプニッツやトマスらには神が常に中心的問題にあったから、ルイスとの分水嶺はそこに見られるかもしれない。中世スコラ哲学で可能世界がどう扱われていたかは興味がある。

2011-02-15 05:24:23
@shinjike

ライプニッツの可能世界論では、現実世界の現実存在しか認めないので、ルイスの可能主義とは決定的に区別されるのだけれども。

2011-02-15 05:27:53
Adam Takahashi @adamtakahashi

quiddity を説明する文脈で、トマスの認識論というのは、material な事物が、どうして immaterial な知性によって捉えられるのか、というのが基本的な問題としてあって、その問題を解くために、彼は「事物」「感覚」「知性」と順を追って考えたのだ、と述べた。

2011-02-18 03:42:28
Adam Takahashi @adamtakahashi

で、事物と感覚の間を媒介するのが「ファンタスム」(表象像)であり、感覚と知性の間を媒介するのが「可知的形象」であり、この可知的形象を通して、知性は事物の不変的な「本質」(quiddity=何であるか)を知るのだと、トマスは考えた。この認識論の前提になっているのは、事物の本質は不変

2011-02-18 03:48:32
Adam Takahashi @adamtakahashi

であるという世界観だ。トマスの認識論は、その後アウグスティヌスの教義を発展させる形で、知性による個々の事物の「直観」を重視するオッカムなどの哲学者によって批判されるようになった、と。

2011-02-18 03:51:39
Adam Takahashi @adamtakahashi

哲学史的には、トマスみたいな、ファンタスムとか可知的形象といった謎の概念を出してくる人間を批判したオッカムさん偉い、ということになるのだけれど、そういう哲学史観は貧しいよね、といったのが隠れアヴェエロス派のアガンベン大先生となるのかもしれない。

2011-02-18 03:53:33
しんじけ @shinjike

ちょ、隠れアヴェエロス派w

2011-02-18 03:55:16
Adam Takahashi @adamtakahashi

実際、『スタンツェ』のなかで一応学術的な体裁をとっている「鏡の前のエロス」という論文で、アガンベンは、この「ファンタスム」という概念が、プラトンの『ピレボス』から始まって、アリストテレスによって整理され、その後アヴィセンナ&アヴェロエスによって、中世の認識論の中心的な概念になった

2011-02-18 03:55:31
しんじけ @shinjike

かくして典拠が示されたのであった。。。

2011-02-18 03:57:48
Adam Takahashi @adamtakahashi

歴史を、綺麗に整理してくれている。彼の言葉を借りると、僕たちは、もう中世の霊魂論がアリストテレスの phantasmological constellation を解き明かすためにどれだけオブセッションを持っていたのか、容易には理解できなくなっている。

2011-02-18 03:58:25
Adam Takahashi @adamtakahashi

アガンベン先生の「隠れアヴェエロス教徒」ぶりは、アヴィセンナのテキストを引くところから明らかになる。わざわざ自分で引用符を振り、人間の内的感覚というのは、material な事物から、「ファンタスム」が「脱がされて」(disrobing=denudatio)いく過程だ、という。

2011-02-18 04:02:40
Adam Takahashi @adamtakahashi

そして、アヴェロエスにおいて、このようなファンタスムと感覚との関係というのは、「鏡」の比喩と共に語られており、次から次へと、鏡の前で物が物質性を脱がされていく過程として描かれていたというのだ。

2011-02-18 04:04:31
Adam Takahashi @adamtakahashi

アガンベン先生の偉いところは、『ピレボス』からアリストテレスの霊魂論へと転じる過程で、プラトンにおいては関連付けられていた、ファンタスムと pleasure の密接な関係が消え去り、それが中世において、どのように復活してくるのか、というのを論じているところだ。

2011-02-18 04:06:59
Adam Takahashi @adamtakahashi

一応、先日、ファンタスムとか可知的形象とか、そういうのは何かと問うてもわからないといったのは、フェアではないと思ったので、我らのアガンベン先生にご登場願いまして、補足いたしました。

2011-02-18 04:12:23
しんじけ @shinjike

う~む、プラトン~アリストテレスを経て、トマスやアヴェロエスら中世の議論も含めると、近世のイマギナチオ・パンタシアーの議論は、一体どうなってしまうのか…。後期ライプニッツにおいては、想像力の位置づけは、表象の理論で上書きされてしまい見えにくくなってしまうし。グランド・ケスチョン。

2011-02-18 04:32:02
しんじけ @shinjike

純粋に思考で考えられたものは、考えられたからには、それなりの鏡像を実在に持っているはずと考えるのは、やはりぼくがプラトニスト的なところがあるからかもしれないな。

2011-02-18 04:36:59
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