日曜形而上学 D.ルイスのquidditism~トマスにおけるquidditas
想像力とは何か、知性的形象とは何か、わけがわからないから哲学するのである。たとえそれが、感覚と知性をつなぐ認識上の伝統的分類にすぎないとしても、歴史的にそれが何なのかは単なる設定として片づけられても、わけがわからない以上、哲学的には問う意味が発生するのではないか。あれ、厨二病か?
2011-02-14 08:21:11@shinjike 「想像力とは何か、知性的形象とは何か、わけがわからないから哲学するのである」>仰るとおりです。私の意図は、そういうことを問うのが重要ではないというのではなく、それらが問題として浮上した前提や背景をまず考慮する必要があるだろう、ということでした。
2011-02-14 18:24:36昼ごはんを食べていたら、ふらっと(?)、名著『可知的形相』の Leen Spruit 大先生が研究室に現れた。。。どこかで会ったことがある顔だと思っていたら、ウォーバーグで二年前に会っていたのだ。彼は、自らアヴェロエス派を自認していたことを付記したい。
2011-02-14 20:58:13@adamtakahashi 「それらが問題として浮上した前提や背景をまず考慮する必要がある」というのは、まさしく仰る通りです。勉強すればするほど、そのことを痛感いたします。いやあ、しかし、17世紀の哲学は、想像力の問題で、死屍累々という感じですね。おたがいがんばりませう!
2011-02-14 21:00:53中世の「可知的形象」云々の Philosophy of Mind (と言えるとして・・・)と、デカルト以後のそれとを大きくわけるのは、consciousness の問題が大きいと思うのですが、SEP に便利な記事が登場していた。http://bit.ly/cqM7L4
2011-02-14 21:23:19[philosophy] 〈此性/何性〉でよいではないか。 / Togetter - 「日曜形而上学 D.ルイスのquidditism~トマスにおけるquidditas」 http://htn.to/kjqeou
2011-02-15 01:05:55以前のquidditasをめぐるツイート、言い忘れていたが、「可能世界」というのが、重要な分水嶺になるのかも。他方で、ライプニッツやトマスらには神が常に中心的問題にあったから、ルイスとの分水嶺はそこに見られるかもしれない。中世スコラ哲学で可能世界がどう扱われていたかは興味がある。
2011-02-15 05:24:23quiddity を説明する文脈で、トマスの認識論というのは、material な事物が、どうして immaterial な知性によって捉えられるのか、というのが基本的な問題としてあって、その問題を解くために、彼は「事物」「感覚」「知性」と順を追って考えたのだ、と述べた。
2011-02-18 03:42:28で、事物と感覚の間を媒介するのが「ファンタスム」(表象像)であり、感覚と知性の間を媒介するのが「可知的形象」であり、この可知的形象を通して、知性は事物の不変的な「本質」(quiddity=何であるか)を知るのだと、トマスは考えた。この認識論の前提になっているのは、事物の本質は不変
2011-02-18 03:48:32であるという世界観だ。トマスの認識論は、その後アウグスティヌスの教義を発展させる形で、知性による個々の事物の「直観」を重視するオッカムなどの哲学者によって批判されるようになった、と。
2011-02-18 03:51:39哲学史的には、トマスみたいな、ファンタスムとか可知的形象といった謎の概念を出してくる人間を批判したオッカムさん偉い、ということになるのだけれど、そういう哲学史観は貧しいよね、といったのが隠れアヴェエロス派のアガンベン大先生となるのかもしれない。
2011-02-18 03:53:33実際、『スタンツェ』のなかで一応学術的な体裁をとっている「鏡の前のエロス」という論文で、アガンベンは、この「ファンタスム」という概念が、プラトンの『ピレボス』から始まって、アリストテレスによって整理され、その後アヴィセンナ&アヴェロエスによって、中世の認識論の中心的な概念になった
2011-02-18 03:55:31歴史を、綺麗に整理してくれている。彼の言葉を借りると、僕たちは、もう中世の霊魂論がアリストテレスの phantasmological constellation を解き明かすためにどれだけオブセッションを持っていたのか、容易には理解できなくなっている。
2011-02-18 03:58:25アガンベン先生の「隠れアヴェエロス教徒」ぶりは、アヴィセンナのテキストを引くところから明らかになる。わざわざ自分で引用符を振り、人間の内的感覚というのは、material な事物から、「ファンタスム」が「脱がされて」(disrobing=denudatio)いく過程だ、という。
2011-02-18 04:02:40そして、アヴェロエスにおいて、このようなファンタスムと感覚との関係というのは、「鏡」の比喩と共に語られており、次から次へと、鏡の前で物が物質性を脱がされていく過程として描かれていたというのだ。
2011-02-18 04:04:31アガンベン先生の偉いところは、『ピレボス』からアリストテレスの霊魂論へと転じる過程で、プラトンにおいては関連付けられていた、ファンタスムと pleasure の密接な関係が消え去り、それが中世において、どのように復活してくるのか、というのを論じているところだ。
2011-02-18 04:06:59一応、先日、ファンタスムとか可知的形象とか、そういうのは何かと問うてもわからないといったのは、フェアではないと思ったので、我らのアガンベン先生にご登場願いまして、補足いたしました。
2011-02-18 04:12:23う~む、プラトン~アリストテレスを経て、トマスやアヴェロエスら中世の議論も含めると、近世のイマギナチオ・パンタシアーの議論は、一体どうなってしまうのか…。後期ライプニッツにおいては、想像力の位置づけは、表象の理論で上書きされてしまい見えにくくなってしまうし。グランド・ケスチョン。
2011-02-18 04:32:02純粋に思考で考えられたものは、考えられたからには、それなりの鏡像を実在に持っているはずと考えるのは、やはりぼくがプラトニスト的なところがあるからかもしれないな。
2011-02-18 04:36:59