戦国後半になって、領域が広大化すると自領内での行軍時の補給が大変なんだよな。多分。国衆同士が中悪いと(たいて悪いんだけど)、これ幸いと略奪するやつ出て来るし。
2016-09-13 23:01:29ここらへんの計算は面白いわけですが、担量100キロで一日あたり飼料10キロということは、牛馬がやたらに飲む水を勘定に入れないとしても、輸送量の一割が小荷駄隊自身が消費しちゃうので、進路の宿駅に馬秣を事前準備できてないと十日でゼロになる。
2016-09-13 23:54:03それで連想したのが延暦8年の対蝦夷戦争。続日本記では五万ないし十万の動員を記録してますが、北上川を渡河して攻め込んだのは4千人。どうもこの時は坂東から多段ロケット式に兵站を前進させたのではないかと思われます。
2016-09-14 00:01:11アテルイに敗れ桓武天皇が激怒した征討大将軍紀古佐美は、続日本記を見るとむしろ補給について常識的で、最初から目標が兵站の限界外であったように思われます。田村麻呂の胆沢城建設が転機となったのは、兵糧の現地調達と集積が可能になり常駐兵力で圧倒するするようになったのではないかと。
2016-09-14 00:10:41十九世紀中葉までの兵站技術は、牛馬と人夫と舟船だからクセルクセスのペルシャ軍と基本的に変わらんかったわけで、鉄道やトラックが戦争を変えるわけですなあ。
2016-09-14 00:18:50そう言えば蒸気機関の歴史を読むと、19世紀中葉のイギリスでは蒸気鉄道と蒸気バスが長距離馬車の市場をめぐり熾烈な仁義なき競争を繰り広げたが、鉄道業界の勝利は政治工作など人的要素が絡んだものだった。
2016-09-14 00:30:50どちらも蒸気機関なので技術的経済的にこの時代の鉄道が決定的に優位とは言えなかったので、近代鉄道より先にモータリゼーションが開花する可能性もあったようだ。
2016-09-14 00:32:29蒸気自動車は、当時の技術では機関が重すぎて実用にならない、という理由で鉄道が普及したはずだが。政治工作で勝ったなんて聞いたことないよ…。 twitter.com/tsukasafumio/s…
2016-09-14 00:34:54@Tamon0703 1830年代にウォルター・ハンコックが創設した蒸気バス会社にはじまり、英国内では旅客バスが発達しつつありました。これが一変するのが1861年に議会を可決したの自動車法(赤旗法)で、時速わずか3マイルに速度制限された旅客バスは衰退を余儀なくされています。
2016-09-14 00:46:36@tsukasafumio その法律が阻害したのは、後の内燃機関によるバスのイギリスにおける発展だと認識しています。蒸気機関は重く、当時の道路-タイヤ系で実用化するのは難しかったからこそ、鉄輪鉄レール系がここまで発展したわけで、法律だけならアメリカなど他の場所で発展するはずです。
2016-09-14 00:48:51@Tamon0703 技術先進国である英国の動向が影響を与えた部分もあるかと思います。私も強く拘泥するわけではありませんが、単線的にあるべき結果が導かれたというよりも紆余曲折があったのではないかと思う次第です。
2016-09-14 00:56:16@tsukasafumio ウィキペディアをちょっと見てみましたが、ハンコックの蒸気バスは、1840年時点で既に勢いを失い、有料道路の料金が値上げされたことで撤退して行った、とありますね。1861年の法律以前に既に勢いがなかったのではないかと。
2016-09-14 00:57:56@Tamon0703 ターンパイクの料金がコスト面で厳しい要素になったのは確かですね。そこの道路行政で有利な状況を作り出せなかったのがバス業界の失敗でしたね。
2016-09-14 01:04:45@tsukasafumio ターンパイクは、当時ほとんど民営だったはずですから、どちらかというと事業者との折衝でしょうね。馬車に比べてはるかに重い蒸気バスが走って、路面補修に費用がかかることを嫌われたのではないかと推測します。
2016-09-14 01:06:07@tamon0703 そのあたり、技術と経済の時代的な解だったのでしょうが、ひとつ前提の要素が違っていればまた別の解がありえたのではないか、そういう想像も働きます。
2016-09-14 01:17:16