秀吉の中国大返しから始まった行軍速度の話

一日46㎞という行軍速度は強行軍なのかそうでもないのか、という話。ローマ軍団やナポレオン軍などの例も出つつ、でもその軍勢の規模や装備、道路の状況によっても左右されるから簡単には言えないよね、という話とか。
豊臣秀吉 羽柴秀吉 軍事 戦国時代 歴史 行軍 本能寺の変
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まとめ管理人 @1059kanri
やっと手元に!盛本昌広 著『本能寺の変 史実の再検証』!いやあ面白い。本能寺の変における虚実の議論は、ほとんどこれ一冊で纏まるのではないでしょうか。これはお薦めしたい本ですね tokyodoshuppan.com/book/b215925.h… pic.twitter.com/yaIFrVrFTm
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まとめ管理人 @1059kanri
秀吉の中国大返しについて『これを小和田哲男は強行軍とするが、1日に10キロ程度進むのが標準であったとでも言うのだろうか(略)(家康が)文禄2年に名護屋からの帰国を許された際には京から江戸まで11日で着いているので、1日約46キロの行程であり小和田の認識によれば超強行軍となる
まとめ管理人 @1059kanri
@1059kanri これが超強行軍ならば家康を始め家臣たちは全て途中で過労死していたであろう。これではすべての旅・行軍・行商などが超強行軍となり、これを連日行っているので、こうした人はみな過労死し、既に人類は滅亡していたことになる。このような記述は先入観によるものでしか無い』
まとめ管理人 @1059kanri
@1059kanri 盛本昌広『本能寺の変』より。実に的確な内容ですw
ハーブ @author_herb
@1059kanri 少し視点の違う意見ですが。^^; 数千、万単位の軍勢の移動には、小人数のような移動速度は難しかったろうと思います。 盆正月や連休に起きる大渋滞を思いますと、軍勢の移動でも渋滞が起きて思うように進めなかったと思います。
まとめ管理人 @1059kanri
@thief_Herb まあ一応、軍勢の平均的な速度は1日40キロだったようです。秀吉の中国大返しもほぼその程度のスピードです
神無月久音 @k_hisane
そういや沢庵和尚も江戸と京を何度か往復してますが、大体が片道2週間前後で砂。和尚の年齢は還暦越えで、おそらくは徒歩なのですが、それでも江戸→京をこの日数なので、当時だとそこまで無理な日程ではなさそうかなと。 twitter.com/1059kanri/stat…
まとめ管理人 @1059kanri
@k_hisane なるほど、沢庵和尚さすが、歳をとっても健脚ですねw
扶桑委員会 @fussoo_moe
一日46キロはかなりの強行軍だと思うが…………ていうか記録を疑うレベルで速い。そのときの軍の規模にもよるが、万を超える軍でその数字はあり得ない。そして当委員会の認識だと当時の軍なら一日十キロ程度が標準だったと思ったが。
SUDO@大和さん可愛い @sudo_simoigusa
@fussoo_moe 江戸時代の東海道だと成人男性で40~50km/日、参勤交代でも30~40km/日だそうですから、46km/日は道路と天候がよくよく統制された精鋭隊の行軍なら強行ってこともないかと
扶桑委員会 @fussoo_moe
@sudo_simoigusa 戦国時代で街道の整備がそこまで進んでいないと思うんですよねぇ……歩兵なしで馬廻りだけ数十名規模なら十分可能だとは思うんですが……
SUDO@大和さん可愛い @sudo_simoigusa
@fussoo_moe 京~江戸は東海道ですから、元々戦国時代を通じて主要交通路だし当時の家康を考えれば行路は事実上支配下や縁者の地ですから宿泊も連絡も困ることはないはずで、参勤交代と大差があるとも思いがたいです
扶桑委員会 @fussoo_moe
@sudo_simoigusa ふーむたしかにそのあたりのことを考えると家康の場合はそれくらいの速度は出そうですね……
ooi@n_m @JDSDE214
@sudo_simoigusa @fussoo_moe それに付け加えるとするなら、この手の長距離の軍勢移動に関して秀吉の関東遠征からこっち、それなりのノウハウが確立されていたと見ていいのでは。
飛鷹隼 @junhiyoh
更に遡ってで最盛期のローマ軍団で平均20~30km、大休止をいれない強行軍でほぼ60kmを24時間で走破した記録もあるので、携行荷重の適正化と行軍隊列、あと路面状況次第ではあると思うけど40kmはけして無茶ではないかもとは @sudo_simoigusa @fussoo_moe
SUDO@大和さん可愛い @sudo_simoigusa
@junhiyoh @fussoo_moe うん、無理ではない。でもまあ40+になったら隊列とか統制考えると限界級でしょうねえ
飛鷹隼 @junhiyoh
理想値は50~55km、行軍中に起こりうる諸々加味すると45±1~2kmが現実的な限界でしょうね(ローマ軍団(近代基準で旅団相当)の60kmも多分軽荷重かつほぼ全区間完全舗装路での「限界出してみた」記録だとおもうし) @sudo_simoigusa @fussoo_moe
扶桑委員会 @fussoo_moe
参謀をそこそこ整備していたナポレオン軍でも強行軍での最速は一日二十キロいってなかったはず。行動計画を緻密に構築出来ていたとは思えない当時の武家の軍が一日四十六キロ……?
孝好 @soul_warden
@fussoo_moe 行軍速度はもうちょっと早いと思いますよ。例えば関ヶ原遅参の秀忠は、9/9に上田で敗北して、関ヶ原到着が9/20、上田と関ヶ原間の距離が中山道経由でざっくり300キロ位ですか。なお途中は悪天候だったそうです。まぁ強行軍かけたとは思いますが。
扶桑委員会 @fussoo_moe
@soul_warden おお……その記録が正しいならかなり速いですね……
扶桑委員会 @fussoo_moe
また、数千あるいは万単位の人間を一度に動かすのと旅や行商を比較するのがそもそも間違ってる。人数が多くなればそれだけ移動に時間がかかってしまう。
SUDO@大和さん可愛い @sudo_simoigusa
@fussoo_moe 隊列組むだけでも死ぬよね。4人ずつ横に並んで1万人なら2500列、列ごとに2~3mあけるとそれだけで5~7km、隊ごとに間を開けたりすりゃ10kmだ。平均時速6kmとしても、最後尾は先頭から2時間遅れだ
扶桑委員会 @fussoo_moe
@sudo_simoigusa 適時休憩や水や食料の配布なども必要になるので、一人二人の旅路とは全く異なる世界なんですよねぇ……
BARSERGA@C97新刊BOOTH販売中 @BARSERGA
@fussoo_moe 個人的には戦略機動する兵力と行商人くらべちゃアカンだろう、っていうのと、当時の交通路の整備具合にもよるだろう?っていうのがあるなぁ。昔の往還道の道の広さから察するに…とか考えてしまうけれども。
扶桑委員会 @fussoo_moe
うーん……条件が異なるものを比較して軍の行軍速度を論じている先の本はちょっと信用できないなぁ……行軍の常識的な速度を把握していなさそうだし……
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コメント

今日が終わりの始まりの日 @__blind_side 2016年4月7日
まとめ内でも例は挙がっておりましたが、数千、あるいは万を越えるような大人数での行軍の際、時間を短縮するというか、大人数ゆえの時間のロスを最小限に抑えるアイデアってどんなことがあったのかが気になりました。
水面計@いつのまにかオッサン @W_L_G 2016年4月7日
行軍速度の話でよく欧州のナポレオンやローマ軍の話と日本の話を比べることあるけど、日本が欧州に比べて起伏が激しくて進軍の障害となる川も多く、しかも軟弱な地盤で雨がふると大変とか、そういったのはどれくらい考慮してるんだろうか? ついでにいうと江戸から京都までは約492km、当時は歩くと2週間ほどですが、飛脚は人馬を変えながらリレー輸送して3~4日で走り、維新の頃に新政府軍は一ヶ月以上かけて進軍していた。
司史生@がんばらない @tsukasafumio 2016年4月7日
戊辰戦争の行軍速度は平均して1日24kmぐらいですね。また近代以前の行軍速度は、河川や沿岸の舟運を活用できるかでも変わってきます。
nekosencho @Neko_Sencho 2016年4月7日
武装したまま歩くのか、荷物は別にできるのか、途中での会敵を考慮するのか移動だけできればいいのか、気温や湿度もあるし食料や水の調達の問題もある。いろいろ条件で変わってくるよね
イエーガー@ライファンも同じ名前でやってます @Jaeger75 2016年4月7日
__blind_side それこそが軍隊に入って最初にやる「行進訓練」ですよ、アレはなにも精神訓練や展示の為に始まったのでは無く「万単位の大人数を秩序だって効率的に移動させるために必要なノウハウ」の最たるものです。
イエーガー@ライファンも同じ名前でやってます @Jaeger75 2016年4月7日
あと気になったのが、纏め内の人が「昔の人の脚力を現代人基準で推し量ろうとしてる事」ごく一部の富裕層以外は原則「徒歩」しか移動手段が無かった時代の人達の脚力が現代並な訳ないと思うんですけどねぇ。 実際テレビ番組の話で恐縮ですが江戸時代の一般の人の旅行(伊勢参りとか)の様子の記録だと、現代人じゃ想像できない距離を一日で歩いてるみたいだし。(具体的な数字は忘れた)
扶桑委員会 @fussoo_moe 2016年4月7日
大軍を素早く移動させるための工夫としては、部隊をいくつかに分け平行している街道を使ってそれぞれ目標地点に向かうというのがあります。ただこれは街道の輸送能力などを事前に把握しておくことや移動の計画を構築する必要がありました。これを組織的に実現したのがプロイセンの参謀本部です。
蟹戦車F44 @crabgunner 2016年4月7日
「道路は人数制限のある乗り物」と理解しないとなかなか難しい内容かもしれない。軍隊が移動するときは統制しないと帰省ラッシュの高速道路になる
小川靖浩 @olfey0506 2016年4月7日
あと大返しの場合は「そのあと即開戦である」ということを考えても大勝負だったことには変わりはないでしょうな。疲労は士気が上がらない典型的なものですし。まぁ、だからこそ「仇討ちである」という大義を構築するための様々なパフォーマンスやら有り金全部兵士に分け与えたりとあれやこれやの方策を行ったんだろうけど。
ハドロン @hadoron1203 2016年4月7日
秀吉の軍勢が毛利軍とほとんど戦っていない、ということも大きな要因だろうね。私も小田原から鎌倉まで11時間くらいで歩いたことあるけどさ、体力はもちろんのこと道に迷ったりしないことが何よりも大事。草鞋もあっという間に擦り切れるだろうから、いくつか用意してたんだろうな。
うまごん・ゆうすけ@ヴァイオレットネバーガッテン @yf_muishizen 2016年4月7日
当時の北条家の領地管理システムがほぼ近代国家のそれだったことを思うと、軍隊内での計画管理は相当徹底されてたのでは。
Noodle. @Noodle1002 2016年4月7日
大返しは行軍速度よりも秀吉の情報伝達と判断の早さがなせる技なのかも。本能寺秀吉黒幕説とかもワクワクはするんだけど。
清新明朗な加賀内閣 @hirataitaisho 2016年4月7日
大返しが可能だったのは、本当なら来るはずだった信長軍を迎えるための道中準備を、そのまま逆用したからではなかったか?
アリノリ @a_ri_no_ri 2016年4月7日
全体はこういう話題だったのか。ごく一部の内容に反応する形で書いたから、流れの中で浮いているな…。秀吉の移動は、先ず自領に戻れたのも大きいと思うのだが。
水野修平 @mizunosyuhei 2016年4月7日
a_ri_no_ri と言うか、秀吉の場合、備中高松城のすぐ東は自己の影響下にあった宇喜多氏の領内で、それに続くのは当時の秀吉の本拠地であった播磨で、そこを抜ければ敵のいる京都は目前ですので、実質自領内の行軍が殆どなんですよね?敵地と自領内の行軍ではやはり速度も違ってくると思います。
司城肥後介誠治 @opinel432 2016年4月7日
まとめを更新しました。
アザラシ@毒 @AzaraSeals 2016年4月7日
行軍速度だけでなく「何でこんな早く知られたの?しかも毛利相手なのに軍団戻ってくるの早くね!?」って要素もあって金柑頭(今年はドM)もビックリだと思ってた…
亜山 雪 @ayamasets 2016年4月7日
1日40kmは可能でも、それを3日続けるのは不可能でしょう。
亜山 雪 @ayamasets 2016年4月7日
実際には馬で走らせた先遣隊が山崎に到達した時刻をもって大返しとしたのではないかな。
こざくらちひろ @C_Kozakura 2016年4月7日
自国領ならば食糧や物資はもちろんのこと、それを輸送する牛馬や人員は徴発すればいい。文句が出るようならば、年貢と相殺してしまえば手持ちのキャッシュも不要。つまり、自国領土内であれば移動の足かせとなる輜重部隊は外注化できるので、行軍速度は飛躍的に向上できる。
こざくらちひろ @C_Kozakura 2016年4月7日
何より、大返ししても本隊が到着するまでにある程度の日数がかかるならば、その間の時間稼ぎとして、京近辺の農民を徴用して兵士の格好だけさせてしまえばいい。本隊は道中の酒保を空にしながら戦いが始まるまでに京へ戻ればいいんだし、逆に「中国から戻ってきた」と喧伝することで、敵の士気もくじける。
kartis56 @kartis56 2016年4月7日
上方ならともかく旧東海道・大森あたりでも道幅2間程度しかないような
未知神明(みちがみ・あきら) @ontheroadx 2016年4月7日
だいたい豊臣秀吉がやったすごいことは、彼の知恵ではなく金でやったことに、今ではなっています。
山北篤 @Gheser 2016年4月13日
旅行と行軍は別物だということを理解していないこの本は、今ひとつ信用できないなあ。1日8時間移動に使うとしても、行軍では、そのうち2時間を出発に2時間を着陣に使い、実質行軍時間は4時間以下となるのが普通なんだけど、それを知らないのかな。
カエサル(安部譲二を許銘傑) @caesar_SPQR 2016年5月30日
中国大返しは「本能寺の変を知ってすぐに停戦し、本拠地に戻り、再び軍勢を整えて明智を倒す」まで全部合わせた速さが驚異的なので、行軍速度は大したことがないとしてもおかしくない。
カエサル(安部譲二を許銘傑) @caesar_SPQR 2016年5月30日
家康といえば神君伊賀越も速かった。こちらは少人数ながら当時としても最悪の悪路を通って本拠地に戻り、やはり軍勢を整えて山崎の合戦の知らせを聞く時にはもう出発していたのだ。
山吹色のかすてーら @sir_manmos 2016年5月31日
ローマって輜重隊は奴隷が担っているはずで、兵士だけの戦国時代とは、単純には比較出来ないのではないかと。
千鶴 @Tdr_moeguti4065 2017年3月31日
こちらのまとめは秀吉の大返しと家康の秀次事件の時の速度の比較?になってしまっているけど、関ヶ原時の徳川軍で見ても家康の方が速いと思う。江戸から3万(日本戦史)~5万(近衛前久書状)の軍勢で9月1日江戸出発、中1日休みを挟み、14日美濃赤坂着関ケ原に移動着陣、翌15日関ケ原決戦。
ぴょん @1.4後楽園 #TJPW @py0n 2018年5月21日
万単位の人間が朝起きてごはん支度して食べて用を足して点呼して隊列を整えて順番に出発。行列だつて数km。途中に休憩入れたら、また点呼取つて隊列整えて隊毎に出発して、目的地に着いたらまたごはんの支度して食べて寝る。日中しか移動しないなら、歩く事に掛ける時間はそんなに取れない気がする。
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