- Uroak_Miku
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26)お国ことばってありますよね。今の私たちはいわゆる共通語を使いこなせます。テレビのおかげです。しかし江戸時代ですと薩摩の侍と会津の侍が会っても会話が困難でした。そのくらいことばが地域によって違っていました。
2016-11-21 09:51:1927)しかし漢文というエスペラント語がありました。その延長に候文もあります。武士階級の男子なら漢文と候文の教育を受けるので、これを使えば書簡でやり取りできたわけです。
2016-11-21 09:52:3228)国学者は全国各地にいました。宣長は今でいう三重県の医者でしたし、直接の面識はなかったけれど自称弟子の平田篤胤は今の秋田県のひとです。国学研究者というかマニアのネットワークがありました。互いに書簡を交して研究成果を語り合った。 pic.twitter.com/4QhjCNp6x1
2016-11-21 09:56:1129)賀茂真淵と宣長の書簡をどこかで読んだことがあります。候文が基本で、やがて和語でのやり取りに宣長が挑みだすのでしたか。記憶があいまいなので後で図書館で再見してきます。
2016-11-21 09:57:3831)で、漢文の素養と候文の用法をマスターしている知識人(男ばっかりですが)が、クニを超えて「雅語」という古代ラテン語を信奉したわけです。これがやがて「日本」のルーツとして「天皇」を戴く思想となり、幕末の尊王攘夷運動の思想支柱になる。フランス革命がルソーの思想を根拠にしたように。
2016-11-21 10:10:3332)宣長ら国学者たちは今でいう「方言」の問題をどう考えていたのか。そのあたりを論じたものを読んだことがない。あればぜひ読んでみたいのに。
2016-11-21 10:11:2934)欧米列強の海軍力が日本にも及んできます。その前に清国が大英帝国と一戦交えて負け越したアヘン戦争があって、そのいきさつと顛末はオランダ大使を経由して幕府高官に伝えられていました。次は日本だ、と恐怖が増していった。
2016-11-21 10:14:0535)とうとうアメリカが強硬手段で幕府との交渉に挑んできました。嫌なら江戸の町は火の海だ!といわんばかりに軍艦が江戸湾奥深くに入ってきました。条約をごり押しされ幕府は応じました。 pic.twitter.com/unqlSuIXed
2016-11-21 10:16:4736)西洋のことばを学ばないといけない時代になりました。福沢諭吉がオランダ語を捨てて英語を一から学びなおした逸話は有名ですね。 pic.twitter.com/JDWY2Kusbm
2016-11-21 10:29:3037)ペリー来航のとき、実はすでに英語ネイティヴの人間が土佐にいました。ジョン万次郎です。漁師上がりで、14のとき遭難してアメリカの捕鯨船に拾われ、頭の良さを買われて本土にわたり小学校から学んで船の技術を身に着けた。バイリンガルとして改めて歩き出したわけです。
2016-11-21 10:33:3038)咸臨丸で幕府高官がアメリカに渡るとき、福澤と万次郎もいました。ともに通訳として期待されたのですが福澤はいざサンフランシスコにつくとあまり会話がうまくないと知られ同僚たちを失望させた。万次郎は完璧でしたが。
2016-11-21 10:36:0839)当のふたりは別に不仲ではなかったようですが。さて帰国後活躍したのは福澤のほうでした。万次郎は漁民上がりですし14歳で遭難してアメリカ船に拾われた身なので漢文(漢学というべきかな)の素養がなかった。それで英語の書物をうまく翻訳できなかったのです。
2016-11-21 10:38:1540)司馬遼太郎の受け売りですが万次郎は幕府の商船学校の教師をしていて、難しい話になると英語で押し通してしまうため生徒は置いてきぼり。「みなわかっちょるな!」で終わり。船の専門用語を漢語にうまく置き換える力がなかった。バイリンガルゆえに面倒くさがった。すると坂本龍馬が食い下がる。
2016-11-21 10:40:0741)勝海舟の推薦で竜馬が入っていたのです。いちいち「それはなんですぞな 」と食い下がるので万次郎に嫌われた。「なんだあの大男はいちいち話の腰を折りやがって」。
2016-11-21 10:41:2042)歴史のうんちく話に傾いてしまったので戻します。書きことばと話しことばの断絶が日本では大きくて、そこに橋をかける能力が万次郎には足りなかったのです。福澤は漢学はむろん、大阪の超英才校・適塾の筆頭として誉れ高く、化学も電気学もオランダ語の書物でマスターした理系の星。
2016-11-21 10:45:2343)福澤も万次郎も、新政府の高官としてご指名がかかったものの辞退した。ひとを育てる側につきたい、と。福澤は英語の書物の翻訳で啓蒙を、万次郎は商船学校の教師として人材育成を選んだ。書きことば/話しことばの断絶とどこかパラレルに感じられます。
2016-11-21 10:50:4645)西洋に倣って日本は「国家」にならねばならない。「国家」は「国民」あってこそ成り立つ。そして「国民」は納税にくわえ「兵役」が義務付けられた。むろん男子、それも長男ではなく金持ちでもない家の人間への義務でしたが。
2016-11-21 10:53:5646)いろんなクニから若い男たちが集められ、軍服を着せて「兵隊」にされた。上官は長州の元サムライ。長州語で号令をかける。兵たちは会津や越後や美濃やほかいろんなクニからの寄せ集めなので、上官の号令が聞き取れない。これでは軍隊として機能しない。
2016-11-21 10:56:2047)「国民」は等しく同じことばが話せなければならない。この問題意識から「標準語」と「方言」の二項対立が意識されていきました。
2016-11-21 10:58:5848)東京山の手のことばを「標準語」とする、と法で定めたわけではありませんが、そういう意識が政府のなかで浸透していった。
2016-11-21 11:00:0649)ここまでの話をまとめてみます。江戸時代には国学者のあいだで「雅語/俗語」の区分がされたぐらいでことばの断絶について論じられることはあまりなかった。それが明治になって西洋の書物とことばが入ってくると、書物のことばと会話のことばにあまり差がないことに日本の知識人は驚いた。
2016-11-21 11:02:2950)「国民」が等しくおなじことばを使えないと、国からのお触れひとつ伝達できない。これでは「国家」が成り立たない。まず書きことば/話しことばの断絶を克服しよう。庶民にもわかるやさしいことばが望ましい。
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