おっぱいの神学―美学的アプローチ・崇高からの接近―
崇高の概念において、一つ大切なことがある。それは対象との距離感である。距離が近すぎれば対象は身近なものになり崇高を感じず、また遠すぎれば直観出来ない。適度な距離が重要なのである。
2011-02-26 00:45:38女性はおっぱいの他の何よりも身近にいる。故におっぱいに崇高を感じることはなくい。また男性の胸は平坦であるが故に自己主張に弱く、おっぱいの崇高を感じ取ることは出来ない。
2011-02-26 00:47:40また同時に次のことも指摘出来る。男性が女性のおっぱいに触れてしまったら最後、おっぱいの崇高は人智の及ぶ領域に引きずり降ろされてしまう。こうなってしまえば、真におっぱいの崇高に陶酔することは出来ず、出来るのはおっぱいに触る前に経験した、かつての陶酔感を思い出すことだけなのだ。
2011-02-26 00:52:48そう、我々とおっぱいの間には、緩まぬ緊張関係が存在するのである。RT @truetomb しかし我々とパイとの関係はそのような隔絶からの合一ではなく、もっと触れや触れずやの緊張関係のうえに成り立っているのではないでしょうか。
2011-02-26 00:54:19おっぱいの崇高に全面的に降伏するのか、それとも快楽のもとに崇高から神性をはぎ取るかの2択である。この2つの狭間で男性は苦悩することになる。
2011-02-26 00:55:45@hirdegard ②に関しては異論があります。パイと所有に関しては、第一に視線によって所有される、第二に接触によって所有される、この二点が重要かと。パイにおける所有は肉体の付属物として消極的なものではなく、鑑賞主体による能動的な働きかけ(視線など)をまず論じるべきでは。
2011-02-26 00:56:45@truetomb 生理学、脳科学、心理学、社会学の視点からも鑑賞主体による能動的な働きかけを追究する必要がある。美学的見地からは崇高に関して、視線によっての所有は可能だが、接触による所有は不可能ではないかと論じる。
2011-02-26 01:09:06では最初の問いに戻ろう。「おっぱいは芸術かアートか」、筆者はここに主張する。そのどちらでもない、と。しかし、一方で次の可能性を提示することが出来るだろう。おっぱいは人間の営為を超えた存在である。だからこそ超自然的存在に謙虚になること、つまり宗教として成立する可能性である。
2011-02-26 00:58:37古今東西のおっぱいに関する記述、芸術品、政治活動の歴史的蓄積を検証しまとめあげること。そしてその上でおっぱいの神性を説くこと。このことが出来れば、おっぱいは一つの宗教おっぱい教として権威を獲得することが叶うだろう。
2011-02-26 01:03:43@truetomb おっぱいは一つのアプローチからその存在を把握することは不可能だと思うのです。様々なアプローチを受け入れ、その上でなお統一性を保持する、それこそがおっぱいの神性を端的に示す点ではないでしょうか?
2011-02-26 01:22:37.@hirdegard そもおっぱいについて神性と呼べるか疑う。私には欲望の文化記号としてより身近(手近ではない!!)なものとして感じられるから。というかパイに崇高の神性を与えて宗教的物件にするとおっぱいのエロチシズムが……いや涜聖のエロは計り知れない……
2011-02-26 01:39:10@truetomb 理念的なおっぱい(神性)と世俗的なおっぱい(文化記号)があって、おそらくその対立なんでしょう。インモラルこそ至上の快楽…。
2011-02-26 01:45:52むずかしぎるぜ…… RT @hirdegard: @truetomb 理念的なおっぱい(神性)と世俗的なおっぱい(文化記号)があって、おそらくその対立なんでしょう。インモラルこそ至上の快楽…。
2011-02-26 01:47:04