「聖の性」から見る僧侶と淫戒

江戸以前の日本における性のあり方について考えます。すいません長いです。 古来日本における女性の地位について http://togetter.com/li/1042094 の続きのようなそうでもないような。
13
波島想太 @ele_cat_namy

逆に、女犯を犯すことなく、妻帯を装って世間から隠遁した高僧の例がある。偉くなるとさまざまな人から頼られてしまうが、それを疎ましく感じ、女を囲う振りをして(実際に囲っても手出しはせずに)流浪の身となった話も伝わる。

2016-11-29 21:41:27
波島想太 @ele_cat_namy

男色、特に寵童についても例に事欠かない。「宇治拾遺物語」に、生き仏と言われた高僧が呪師小院という童子を寵愛し、法師にして僧の装束を着させた上でそれを脱がし、別室へと連れ込んだ記述がある(その後の描写は残念ながらない)。コスプレAVでも脱がす派かもしれない。

2016-11-29 21:41:42
波島想太 @ele_cat_namy

「元亨釈書」に伝わる理満法師は、医師に頼んで男根が萎える薬を処方してもらっていたという。禁欲としては消極的ではあるが、覚悟のある行為だと著者は評価する。それくらい「当時の僧たちの自制心」とは当てにならないものなのである。

2016-11-29 21:41:54
波島想太 @ele_cat_namy

中世、鎌倉幕府以後についてはまた日を改めて。

2016-11-29 21:42:08
波島想太 @ele_cat_namy

鎌倉幕府が開かれた12世紀末には、もはや教団内の自浄作用は皆無に等しく、ごくごく一握りの僧のみが戒律復興を願っていた。その動きの一つとして、戒律を若干緩めてでも、守られる授戒を目指すものがあった。

2016-12-01 21:22:55
波島想太 @ele_cat_namy

それでも出家するにはすでに授戒よりも度縁が重視されていた現実があり、戒律もへったくれもない僧で溢れていた。授戒自体は行われても、実践も修行もない、ただの儀式でしかなかった。

2016-12-01 21:23:31
波島想太 @ele_cat_namy

貞慶や俊ジョウといった志ある僧たちにより戒律復興運動は続けられ、1232年には貞永式目(御成敗式目)が制定され、これによっても僧たちの破戒は露呈していくことになる。

2016-12-01 21:23:43
波島想太 @ele_cat_namy

「御成敗式目」の中で、路上で女性を捕らえ乱暴することは、武士ならば処罰になるが、法師の場合は別の判断になる。犯行時刻が夜間なら無罪となってしまうのだ。僧が夜道で一人で歩く女性を見て邪念を抱くのは無理もない、むしろ夜歩きする女が悪の元であると処罰された。

2016-12-01 21:23:53
波島想太 @ele_cat_namy

これは僧を優遇したというよりは、「僧などその程度の存在である」という当時の幕府の諦めとも受け取れる判例である。その後さまざまな法規が登場するが、いずれにせよ出家者の規律など信用する者はほとんどいない、というのが社会の大半の見方であった。

2016-12-01 21:24:05
波島想太 @ele_cat_namy

戦国時代になると、地方地方で法制が作られるようになる。1475年の「大内氏掟書」には、「大きな祭事を除いて境内に女性を入れてはならない」とある。

2016-12-01 21:24:32
波島想太 @ele_cat_namy

また武田信玄が定めた「甲州法度之次第」には、僧が妻子を持つことを直接禁止するのではなく、「妻子を持つ僧に檀家も寄付してはならない」と周囲から、兵糧攻めのように定めている。相変わらず僧の自制心というものには欠片も信用が置かれていないのである。

2016-12-01 21:24:44
波島想太 @ele_cat_namy

「末法燈明記」は「末法の無戒」を論じる書であるが、その中では名ばかりの無戒の比丘といえどもこの世の宝である、という末世の僧の自己弁護が見て取れる。比丘、比丘尼が我が子の手を引き、酒屋に入り浸るのも末法ならば仕方がないとどうしようもない我田引水振りである。

2016-12-01 21:25:01
波島想太 @ele_cat_namy

のちに東大寺の別当にもなる宗性という僧は、34歳のときに「十箇条起請草案」という十の誓いを立てた。その内容は「修行中には博打をしない、酒を飲まない」などといったもので、それをことさら宣言し「善心」と自己評価しているところがなんとも味わい深い。

2016-12-01 21:25:11
波島想太 @ele_cat_namy

さらに2年後、今度は五箇条の宣言をする。そこでは「36歳までに男色相手が95人に及んだが、100人斬りで打ち止めにする」とか「亀王丸以外の童を寵愛しない」とかいう小学生の夏休みの目標レベルを堂々と誓っているあたりが生々しくも親近感がわく。

2016-12-01 21:25:24
波島想太 @ele_cat_namy

宗性は34歳で禁酒を誓うが、42歳のときにも改めて禁酒を誓っている。12歳から41歳まで酒を「愛して多飲し、酔ふて狂乱」したのを反省したものらしい。とはいえ彼の戒律復興はその後半生にあるのだと著者は記している。

2016-12-01 21:25:35
波島想太 @ele_cat_namy

「古今著聞集」によると、栄性法眼という僧が家中に女を囲い、昼夜なく交わったという。その様子は「栄性が衣服の前をはだけ『一尺すはむの小仏、頭ふりてまいりたり』と言うと、女も前をはだけ『三間四面の小御堂、御戸をひらきてまいり』と答えた」とされ、ふざけ過ぎだと著者も呆れている。

2016-12-01 21:25:46
波島想太 @ele_cat_namy

普段は戒律を守っているが、何かの拍子に一目惚れしたり、衝動に耐えられず淫行に走るという僧の姿も当時の文献に多く見受けられる。例によって真偽はさまざまであるが、僧に対する慕情、尊敬、親しみ、あるいは皮肉や嫉妬など、当時の人々の感覚がうかがえる。

2016-12-01 21:25:56
波島想太 @ele_cat_namy

戦国時代は僧たちの規律もまた地に落ち、やはりここでも戒律復興に努める僧たちが登場する。明忍や元政、妙立などといった優れた僧たちが活発に自浄運動を行ったが、一般の僧尼がどうだったかというと相変わらずであったらしい。

2016-12-03 22:35:03
波島想太 @ele_cat_namy

徳川は幕府開設前の1597年の「関東浄土宗法度」をはじめ、かなりの数の法度を諸宗諸寺に下している。たとえば尼と僧が1対1で会うことも禁じているし、女犯の僧を島流しや、酷いと獄門に処すこともあった。

2016-12-03 22:35:28
波島想太 @ele_cat_namy

「塩尻拾遺」によると、日蓮宗の僧は美しい少女を檀那に育てさせ、芸を仕込み、宗の法義を教え、大家の妾にして自分の宗の教えを広めると同時に金儲けをたくらむ「邪徒」であり「国賊」であると強く非難している。

2016-12-03 22:35:39
波島想太 @ele_cat_namy

「享保通鑑」では、雑司ヶ谷本能寺で丁稚が行方不明になる事件があり、調べてみると寺内には遊女を囲っており、これを見てしまった丁稚が僧たちに殺されたということが判明した。

2016-12-03 22:35:49
波島想太 @ele_cat_namy

大岡越前が裁いた相続事件があった。とある老僧をかつての弟子がたずねた折、この老僧が急死してしまい、これ幸いにと遺書を偽造し、山の庵を自分たちのものとしてしまったが、そこに住んでいる老僧の親戚が異議を申し立てたものである。

2016-12-03 22:36:03
波島想太 @ele_cat_namy

老僧の印もあったことから、一旦は元弟子の主張が通ってしまったが、改めて調べて偽造が判明し、元弟子は流罪になった。

2016-12-03 22:36:14
波島想太 @ele_cat_namy

「文化秘筆」によると、1813年には手の込んだ密通事件が発覚した。大工の女房が旦那寺の僧と密通していたが、別の檀家で女房が死んだときに、その女房の遺体を密通している大工の家に持って行き、火をつけ、騒ぎに乗じて大工の女房を寺に連れ帰ってしまった。

2016-12-03 22:36:26
波島想太 @ele_cat_namy

最初女の焼死体は大工の女房かと思われたが、初七日に大工が子供を連れて寺を訪れた際、子供が偶然母を見つけてしまい、帰宅後に母を見たと父に告げた。父はすぐには信じなかったが、やがて世間に知れ渡ることになったという。

2016-12-03 22:36:35