三島由紀夫の死生観と、ハイデガーの転回
- sunamajiri
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detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de… 「本来、一切は空であり「我」というものはどこにも存在しないのに、その「仮我」を「私」と思い込んでしまうため、その「相互依存の仕組みを維持し個体を存続・輪廻させてしまう」というのが、阿頼耶識の理論」@inja650rr
2017-01-13 21:08:41@sunamajiri 大本さんのハイデガー観で、僕が最も触発されたことの一つには正に世界観の「転回」という問題があります。 「我」とは何か?という事を知る人は 紛れもなく転回を知る人であると捉える事は出来るのではないでしょうか? twitter.com/sunamajiri/sta…
2017-01-13 21:10:58読めないという心情は、まるで自分が無に帰すような不安だが、三島の場合はマゾヒズムで克服したのだ。転回が読めること、というのは解答がわかることなのだ。それが発問のレベルに踏みとどまる生悟り=禅問答では、全てに躓くことになる。死の病とはそういうものだ。@inja650rr
2017-01-12 15:41:52detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de… 「『識』は単なる入出力装置であり、端末・ディスプレイです。」。ハイデガーがカント書で語るカント解釈も、おそらくこれと同じことを言っているのだが、そこでハイデガーは空の代わりに時間というのだ。@inja650rr
2017-01-13 21:11:15@sunamajiri 「我想う故に我あり」と言えば、デカルトが有名ですが 御釈迦様は逆に「われは考えて有る…という不当な思惟の根本をすべて制止せよ。」と伝えたとされます(スッタニパータ)。 ですが根本は我の世界観には、「転回があり得る」という事を理解していたという事なのではないか?と僕には思えます。
2017-01-13 21:16:39@sunamajiri 三島は僕も不勉強ですが、仮に大本さんの言が正しければ、 三島がヒンドゥー教に学んだアートマンとは、より正確にいうと、仏教の概念ではなく、仏教が転回させた、バラモン教の概念です。 twitter.com/sunamajiri/sta…
2017-01-13 21:22:17なお、阿頼耶識がヒンドゥー教のいうアートマンではない、という最新の仏教学的知見から三島を読み直すという問題は、ネットでもよく話題にされていて、この知恵袋のベストアンサーの方の解説のとおりだろう。detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de… @inja650rr
2017-01-13 20:51:24@sunamajiri 僕も三島の思想については、今のところ確かな事は言えませんが、 本当にそうだとしたら、三島という人は 【バラモン教→(転回)→仏教→(転回)ヒンドゥー教】という。 裏の裏は表という事を知っていたんじゃないかと思えてなりません。 先入観を疑いつつ、研究をして見たいと思えました。
2017-01-13 21:25:43@sunamajiri 日本仏教では「諸法無我」というように、 「我」は存在しない。という風に捉える向きがありますが、 原始仏教の梵語の世界では、「無我」とも「非我」とも読める筈です。 twitter.com/inja650rr/stat…
2017-01-13 21:40:50@ecila808 しかし中国語に漢訳される際に対応させる漢字がなく 解釈も時代を経て曖昧になり、 「完全否定(No self=無我)」か 「部分否定(Not a self=非我)」かで解釈が固定されてしまっていたのだと推測されます。
2015-04-12 21:55:24ね? 隠者君には説明不要だったでしょ? ところが三島がこれに煩悶した。文学的には、ファンタジーノベルをリアリズムで書いた破綻という一点に尽きるのだが、これがハイデガーの転回が読めなかった、という一点にかかわるということなのだ。どういうことか。@inja650rr
2017-01-13 22:45:45もう一度、この知恵袋 bit.ly/2jeNbUe を見てみよう。自我は無覆無記で、仮我であり、いわば容れ物にすぎず、従来捉えられていたような超自我ではない、という話だが、ピンとこない? 容れ物があるのかないのか、もし無いとすれば不存在だ。@inja650rr
2017-01-13 22:46:07一言で集約すると、もし「自我」という概念を、本来の阿頼耶識論のように、仮我と捉える術(学的方法)がなければ、実はその人の存在は限りなく不存在に追いやられる、そういうような話だと思えば良い。ハイデガーが自我は超越論の規定語(根源語)ではない、というのと同じ。@inja650rr
2017-01-13 22:53:47要は超越論を規定する単語は、自我なのか、自我ではないのか、という問題地平が生じているということなのだが、この話はカント書論として、一貫してしているので、私のTwilogを検索すると、すぐ何の話かピンとくるだろう。bit.ly/2ikkZQf @inja650rr
2017-01-13 22:57:41たとえば、この二年前のツイート twitter.com/sunamajiri/sta… 超越論は自我を根源語としないことである、という話なのだ。ところが、柄谷や東ばかりか、三島もなのだが、(フロイトのいう)超自我を想定してしまったのだ。@inja650rr
2017-01-13 23:01:07自我から始めるか、時間から始めるか。自我を根源規定として始めれば自我分裂である起源論になるが、時間を規定名として始めれば自我分裂は起こらず超越論化する。たったこれだけの定式をみんな理解できていない。twitter.com/sunamajiri/sta…
2015-06-29 14:03:11仮我=容れ物が有るのか無いのかのか。容れ物があることにできる懐疑=学が可能なのかどうか。それはハイデガーでは転回、ないしはメタ存在論と呼ばれるのだ。今日的に言えばAIの話だと思えば良い。twitter.com/sunamajiri/sta… @inja650rr
2017-01-13 23:13:531929年の話が出てくるのは、生まれてこなければ死なない、人間より動物より石=サイバーな時代になれば、生まれてくることができる。twitter.com/sunamajiri/sta… そういう転回の端緒があったからだが、三島はその手前で読解を挫折しただけだ。@inja650rr
2017-01-12 15:29:05三島はインド旅行で阿頼耶識=輪廻の物語に執着するのだが、しかしそれによって容れ物を無くしてしまったのだ。言うまでもなく、三島以後、小説がだめになりアニメ全盛になるが、それはガジェットに託して、容れ物を語れるようになったからなのだ。@inja650rr
2017-01-13 23:16:42たしかに、物語は、たとえば現代的な総中流とか平等を前提とする空間では不可能なのだ。王子様とお姫様がいないと成立しない。その悲恋物語が、阿頼耶識に依って輪廻する。そういうファンタジーが何のために物語られるのか。それは自我ではなく仮我を暴露するためだ。@inja650rr
2017-01-13 23:20:23@sunamajiri (゜ロ゜)三島超面白そう!!✨ 三島由紀夫の肉声テープを聞いて思ったんですが 超越論を語ろうとすると、どうしても無限の循環論理に嵌まってしまいます。ドラマテイックすぎて小説が終わらなくなってしまうんですよね。寿命が尽きるのが絶対に早いという😅
2017-01-13 23:20:56現代では、それはロボットには仮我があるのか、というようなストーリーが好まれる。もちろんヒーローやヒロインも登場するのだが、そういう仮初であること、つまり自我であること、を相対化する神の視点からは、仮我をロボットのように布置することのほうが、リアルだからなのだ。@inja650rr
2017-01-13 23:24:40ハイデガーの転回というのは、人間には、先駆的決意性=死しかないが、動物に死という意識がない以上に、サイバーな石には、不死があると捉えた点にあるのだ。人間は自我ではなく仮我なのだが、自我だと思いこんで執着している。しかし、サイバー=石には、仮我があるのだ。@inja650rr
2017-01-13 23:28:05三島の感慨はこうだ。戦前から戦後まで、まるで自我が益々仮我のように感じられる。昔話ならお姫様になれたものが、もはや王子様はどこにもいない。インド旅行でそれを阿頼耶識=輪廻と感じるも、それをリアリズム小説として仕上げる力量がない。そういう煩悶だったと思われる。@inja650rr
2017-01-13 23:32:30@sunamajiri 物質も言葉も、空の容器のようなものに過ぎず、実はその中身こそが本質であるという。 正に空観なんじゃないかと僕には思えました。✨ 語りえぬことについて語るほどに言葉からは意味が抜け落ちてしまう。 空の容器が実体だと思えば世の中は空虚な世界に思えて当然すね😖。
2017-01-13 23:45:27ところで、三島が自決した日、私の小学校は靖国神社の隣で、母は毎日車で迎えに来ていたのだが、三島愛読者の母は、靖国神社の真向かいに車をとめ、『豊穣の月』をどこまで読み進めてそう思ったのか、この人死ぬわ、と直感し、ラジオをつけたら、自決のニュースだったそうだ。@inja650rr
2017-01-13 23:47:10@sunamajiri ああ、難しい。 我について語る為には、「言葉」を用いる必要がある筈だが、その言葉が「からっぽ」ならば、実は何も語れない。 だからこそ、人は語れない自我について、人は悶々としてしまう。
2017-01-13 23:53:07@sunamajiri <いま>の言葉が「からっぽ」であることを指摘し暴露する為に、ソクラテスは「〇〇(言葉)とは何か?」と当時のソフィスト達にいちいち問う必要があったんじゃないかと僕には思えます。
2017-01-13 23:56:24@sunamajiri でもおそらくいつの世もそうだと想うのですが、世の中には「からっぽ」の言葉によって利益を追求する人もいる訳です。 そして、そんな人達にも対抗策は存在してきたと僕は思います。 それはつまり、逆に「言葉」の「意味」を増やしまくって希釈させることではないかと僕は思うのです。
2017-01-14 00:00:27@sunamajiri 言葉の意味が稀薄になる。その最たる例が、 まさに「イデオロギー」という言葉だと僕は思います。 本来「空理空論」という程度だった筈の言葉が、色々な意味を付け加えられることで、最早何が何だか全くよく理解出来なくなってしまうというw ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4…
2017-01-14 00:03:52