光武帝は豪族の出身なのか? 中国史ネット界において紹介されてこなかった論文・宇都宮清吉『劉秀と南陽』とは何か。後漢時代研究の『古典』と言われたその内容とは。

後漢の創始者・光武帝(名は劉秀)が豪族出身であったが、ネット上で異論が散見されます。そのため、ネット上において細かい解説が見当たらないにも関わらず、学説において原点となっている宇都宮清吉「劉秀と南陽」を紹介し、学説が光武帝を豪族の出身としている根拠を探るものです。
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4 紹介論文について

まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

どうやら、この宇都宮清吉の論文「劉秀と南陽」を読めば、近年の後漢時代研究者が、光武帝・劉秀を豪族出身であることに首肯した理由が分かるようです。ただし、『漢代社会経済史研究』は残念ながら、絶版しています。 amazon.co.jp/%E6%BC%A2%E4%B…

2017-01-22 01:36:19
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

「それほどの論文ならネットで検索すれば概略くらいは分かるのでは」とお考えの方もいらっしゃると思いますが、実は分かりません。(wikipediaのノートで多少分かる程度)。そこで調べ上げ、紹介することにしました。 ci.nii.ac.jp/naid/400027821…

2017-01-22 01:36:47
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

今回紹介するのは、その宇都宮清吉『漢代社会経済史研究』(1955年)に収録された論文「劉秀と南陽」の内容です。

2017-01-22 01:37:19
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

なお、同書籍に収録された論文「古代帝国史概論」、「西漢時代の都市」、「続漢志百官受奉例考」、「続漢志百官受奉例考再論」、「僮約研究」及び「漢代における家と豪族」も密接な関係があると思われますので、それを使って補足しながら、概略を語りたいと思います。 pic.twitter.com/GNlyzGnPPU

2017-01-22 01:38:02
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まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

なお、地図につきましては、むじんさんのサイト「むじん書院」から、お借りしています。転載・加工自由とのことですので、加工もしております。ここにお礼を申し上げます。 project-imagine.org/mujins/

2017-01-22 01:39:41
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

また、前漢時代の広さの単位である「頃」や「畝」ですが、前漢武帝の時代に単位の広さが2.4倍にまで広がっています。ここでの単位は基本的に前漢武帝時代以降のものを採用し、それ以前のものは、変更以後のもので算定し直していることにご留意ください。 pic.twitter.com/EDI9H3v2tQ

2017-02-11 11:22:35
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5 宇都宮清吉の論じる漢代の豪族とは

まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

論文の紹介の前に、宇都宮清吉は光武帝の時代(前漢末・後漢初期)の豪族をどうとらえているのかを解説します。出典は、宇都宮清吉「漢代における家と豪族」です。(『漢代社会経済史研究」収録)。以下がその概要です。面倒な方は飛ばしてもらって構いません。

2017-01-22 01:41:21
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

漢代では、豪族は、「豪姓」「豪族」「豪右」「豪宗」「豪彊」「大姓」「大族」「姓族」「著姓」などと呼ばれ、後漢では官吏を出したことを示す「家世名族」「家世衣冠」「世為二千石」などとも呼ばれた。「豪民(人)」「豪傑」「兼併之家」も個人ではなく、豪族の意味である。

2017-01-22 01:41:50
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

漢代における豪族は「宗族」とよばれる同姓で結合した経済的に独立した、いくつもの家族で構成されていた。それに対し、「単家」・「単門」と呼ばれる家は、兄弟で財産を分ける経済力がないため、家族が増えることはなく、居住する郷里にそういった集団は持ち得なかった。

2017-01-22 01:42:57
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

豪族勢力の強い南陽・潁川・河内郡は人口密度が高く、没落が多い小農民の家が多かった。豪族は没落した小農民の土地と家を奪い取り、(これは「兼併」という)、分散して土地を所有し、一族で財産分けを行い、その勢力を伸ばしていった。資産が巨万であることが子孫繁栄の必須条件であった。

2017-01-22 01:43:26
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

豪族は、郷里を次第に支配下に起き、「単家」の農民は、豪族の土地を小作する方向に向かっていった。豪族は、郷里を越えて、県や郡単位で散在的に土地を所有し、大きな力を持ち、郡の大姓などと呼ばれた。漢代は時代とともにこの傾向が進んでいった。

2017-01-22 01:45:44
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

豪族は、財産を分け別居することにより、同姓宗族をふやしていった。豪族としては、人が増えても財産が増えず、代々分割していけば、いずれ貧弱化するのは明白である。そのため、家々の富を維持し増大することを目的とした激しい兼併や開墾が行われた。

2017-01-22 01:46:44
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

豪族は多くの同姓が連結し、規律をつくり、宗族全体を守るべく、緊密な関係を宗族内部につくりあげ、一族の優秀な若者を支援して、官僚・役人として政府に送り込んだ。外部に対しては、豪族間で婚姻を行い、お互いの利益を守るようにし、反面、貧弱な「単家」を経済的に圧迫していった。

2017-01-22 01:47:27
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

また、豪族は、「賓客」または「客」と呼ばれる主人との間に人格的な感情にもとづくつながりを有した外部の人間を集めていた。彼らは、主人と強固で排他的な結合を行い、豪族のための陰謀や暴力、小作労働などに従事し、豪族の権勢を利用して犯罪行為を行うこともあった。

2017-01-22 01:48:06
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

賓客の他に、「僮僕」などと呼ばれる奴隷も、主人の家内の雑事や生産の他に、戦時の時に有力な戦闘員となった。豪族の力はこのように恐るべきものがあった。長い年月のあいだに作られた族的勢力は抜きがたいものがあった。

2017-01-22 01:48:36
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

次第に、地方の官界が豪族出身のものに独占され、後漢時代には孝廉は豪族出身の人物に占められるようになる。豪族は、地方長官と緊密に結びつき、長官と地方豪族の青年との間で、門生・故吏という強い関係が結ばれた。この関係はやがて、中央にまで持ち込まれることになった。

2017-01-22 01:49:16
リンク Wikipedia 孝廉 孝廉(こうれん)は、中国前漢の武帝が制定した郷挙里選の察挙科目の一つ。孝廉とは父母への孝順及び物事に対する廉正な態度を意味する。孝廉は察挙常科の中で最も重要視された科目である。元光元年(前134年)、武帝は董仲舒の建議を容れ、毎年国郡ごとに孝者、廉者各1名を推挙するように命じた。やがてこの種の察挙は孝廉と通称されるようになり、漢代察挙制の中の最重要科目としての地位を占めるようになり、漢代の官人の主要な選抜手段となった。儒教的な教養と素行を兼ね備えている人物が主に推挙された。孝廉により推挙された人物は中央に
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

豪族は様々な活動を主導する中心人物、あるいは中心的な家があり、その中心人物の方針に従い行動した。「豪民(人)」「豪傑」「兼併之家」とは、その人物や家族を指したものと思われる。

2017-01-22 01:50:18
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

豪族は漢王朝の広い領内どの地でも分布し発展していった。特に有名なのは、三輔・天水・蜀・太原・上党・河内・潁川・南陽・趙・魏・太山などである。

2017-01-22 01:50:45
まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

漢王朝は前漢・元帝の時代まで首都・長安の周辺にあたる関中に豪族を移住させ、その力を削ぎ、中央の支配下におきやすくするなどを行い、豪族問題に取り組んだが、結局は、失敗に終わり、後漢時代では問題とされることも少なくなった。

2017-01-22 01:51:15

6 「劉秀と南陽」

まめ@史記人物大好きクリエイター @mamesiba195

それでは、「劉秀と南陽」の論文の内容紹介します。一部、分かりやすいように、宇都宮清吉『漢代社会経済史研究』収録の他の論文から補足していますので、ご了解ください。

2017-01-22 01:52:33
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