@ceno_sougou この過程を踏まない場合は分かりやすいのですよ。ただ、世間では踏んでいることが多い気がして(人殺しの例ではなく、例えばTogetterなどでの批判合戦で)、そのことが不思議だなと思ったのです。
2011-03-06 13:08:38.@ceno_sougou ただ、「論理的破綻」て、世間では「怒りの対象」にならないものの代表格ですよねw 数学で式変形を間違えた生徒に、先生が「誤りを指摘」することはあっても、「激怒する」ことは余りなさそうです。それが一方では、怒りの強力な原因になる、というのは、やはり不思議。
2011-03-06 13:17:59@Taroupho それは人の性格によると思いますね。論理的破綻を気にしない人もいれば気にする人もいる。ツイッター上で議論をするような人のほとんどは後者というだけの話だと思います。(学校の式変形の場合は「練習」なので、怒りには繋がりにくいと思われます。)
2011-03-06 13:23:01@taroupho 最初のほうの、批判が正しくても何故憤りを感じる必要があるのか、という問題を考えていました。 おそらく、確かにそれらは結合する必要は無いのだけれど、怒りの必要条件に批判可能(何らかの正当性の回復)が要求されている必要と十分の関係があるのだと思います。
2011-03-06 12:49:06.@necratallo なるほど、個人攻撃の場合などであれば、確かにそうですね。ですが、そればかりとも言えない気がします。どちらかといえば、「それみたことか!」的な、相手の主張の誤りを発見して、ここぞとばかりに怒りをぶつける、という事例の方をよく見かけますね。
2011-03-06 13:02:56@taroupho 確かに「それ見たことか」的な怒りもありますね、だから怒ることに「論理的」である必要は無さそうです。 ただ、「怒り」として記述された以上、正当性に訴えなければ解消されないのではないか? という「怒り」という語の持つ内的関係性を考えています。すると論理的な必要が。
2011-03-06 13:06:33@taroupho そして、多分多くの人が、自然的傾向として「怒り」に転化し得る実質を抱きやすい傾向がある(そしてそれを解消したがるという傾向がある)ということで、実際批判して怒らない人も居るし、傾向として批判で憤る、という話で済みそうかな、と。
2011-03-06 13:09:50.@necratallo うーん、「怒り」に「正当性」を担保する過程が「論理的批判」だということですか。確かにそんな気がしますね。しかし、「怒りの正当性」とは何なのでしょうか。「社会的に正当な怒り」というものがあり、それを「論理的批判」が担保する、ということなのか。。。
2011-03-06 13:13:08@taroupho 僕はそこまで大それたことを考えていなくて。 「怒り」として記述されるために「正当性」が要る(そしてそれは捏造されることもある)という程度のことを考えていました。 何か間違い、お気づきの点があれば指摘していただけると助かります。
2011-03-06 13:16:07僕が考えているところは、人間は不満を抱きがちで、それを「怒り」として解消したがりがち、という程度の話で、実はたいした話ではなかったのですね。。
2011-03-06 13:19:18.@necratallo 個人的に不思議なのは、正当性が捏造される必要があるとしても、なぜ「論理的批判」が「正当性」の捏造になりえるのか、という点ですね。正当性を捏造するということは、何を捏造することなのでしょうねえ。
2011-03-06 13:20:28@taroupho そこは確かに不思議です。 私も、「正当性」や、「論理的」ということが意味するところが共有されるというのは非常に不思議な感触を覚えます。 自分のナマの感覚とは違って、想像的なことの方に力を与える感じがする。
2011-03-06 13:22:36世の中には「正当化根拠」になるものとならないものの二種類があって、例えば資本主義で考えてみると、「もっと貿易を自由化すべきだ!」という主張は、資本主義を正当化根拠として用いているが、「君がどう思おうが、現に世界は金が動かしている」という主張は、特に何も正当化するわけではない。
2011-03-06 13:26:39.@necratallo 「正しさ」と「力」は相互変換可能ぽいですねw 「正当」という言葉は、「正」が「正しさ」を、「当」が「力」を、それぞれ含意する気がします。
2011-03-06 13:33:07ああ、だから「批判されるべき」という言いまわしは、相手の主張が論理的誤りを含んでいることを指摘しながら、なお「べき」において多数の人々が批判する(力を行使する)ことを求めているものとして読めるのだな。
2011-03-06 13:48:10まあ、ぼくは基本的に中傷から入ることにしているので、いちいち論理的に批判してから中傷しろなんて、手間のかかる話だと思うばかりでございますが。
2011-03-06 13:55:39「力とは数である」と考えれば、「正しさ」から「力」を導きたい人は、「批判」を介して「数」を頼まなければならない。それは分かるのだけれど、「正しさ」と「力」の関係は自己完結していても成立する気がする。そこが問題なんだよナー。
2011-03-06 14:01:42@necratallo 当方は感情過多な人間ですのでw 分かりません、根暗さんにはその傾向はないのかも知れません。しかし個人的に「傾向性」では納得できないのも事実です。
2011-03-06 14:06:29