- simasyodes
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昭和19年10月10日の空襲(十十空襲)で校舎が焼けた生徒達は通信や看護の訓練を受けるようになった。(前年頃から陣地構築や物資運搬をするようになった)
2017-04-02 10:30:36そして生徒達は軍へ協力、昭和20年1月には入隊待機となり、3月20日の入隊命令から男子は鉄血勤皇隊、女子は従軍看護婦(ひめゆり部隊とか)や通信隊となる。
2017-04-02 10:30:44この戦死者の数字から北部の名護にあった三中は戦闘があまりなく、元々動員数が少なかった実業系の生徒達に比べ、一中と同じ那覇、動員可能な規模も師範学校や一中と同じながら動員数も戦死者も少ない二中の存在がある。
2017-04-02 10:31:46県立二中には配属将校として高山代千八中尉がいた。高山中尉はあのガダルカナル島から帰還した「歴戦の雄」であった。この数字は高山中尉のある行動があった。
2017-04-02 10:32:15米軍上陸が迫る中、高山中尉は二中生徒達が本島南部高嶺(現在糸満市)に配置されることを知ると「二中は空襲で校舎が焼けたので金武小学校に移転している」と報告している。
2017-04-02 10:34:28しかしそれは高山中尉の「嘘」だったが「歴戦の雄」の報告が通ったのか北部配置となり、英語教諭だった城間盛善の協力で金武へ生徒達を移送して「既定事実」を作った。
2017-04-02 10:35:08昭和20年3月21日頃、金武に移動した生徒達に高山中尉は「(軍へ)入隊には親の捺印入りの願書を持ってくるように」と各家庭に一旦帰るように「命令」している。
2017-04-02 10:35:32そこへ「米軍上陸が近いので上陸の場合は“無理に帰ってこなくていい”」と 付け加えている。意図的に「逃げる猶予」を与えた高山中尉の「機転」だったと思われる。
2017-04-02 10:35:58高山中尉の「機転」も残念ながら南部に家庭がある生徒は鉄血勤皇隊として南部の部隊に編入され戦死した者が多かった。しかし高山中尉の行動はまだ続く。
2017-04-02 10:36:21北部に家庭がある生徒達は宇土部隊に編入されたが高山中尉は「鉄血勤皇隊は最後に使用して欲しい」と交渉、一部はタニュー岳(名護市)の村上治夫大尉の護郷隊に合流して命が助かった。また本人も生徒達の部隊を引率した。
2017-04-02 10:36:51部隊解散後、高山中尉は沖縄を脱出して奄美大島で終戦を迎えた。 多くは語ってないがガ島の経験が「悲惨な戦闘」を予期した行動だったかもしれない。
2017-04-02 10:37:32高山氏の話は(当時は高山氏と校長、教頭、城間教諭しか知らなかった)戦後になって城間教諭の回想によりようやく伝わる。本人は自衛隊へ勧誘されたそうだが断り郷里の鹿児島で亡くなっている。
2017-04-02 10:39:14