#津軽の武将勉強会

津軽藩ゆかりの武将たちの色々をまとめてみました。 武将にまつわる話や、津軽クラスタさんオススメの本等を紹介しています。 知名度低いけど、全国に発信していきたい・・・! 興味を持った方は、是非!!!津軽においでよ。青森においでよ!
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ミカコ @lovelove_pata

面松斎さまのお墓に「有難うございました。また来ます」とお別れをして、門を出ようとした時…ふわぁっと桜吹雪が。 ちょっと感動してしまった…! #津軽の武将勉強会 #誓願寺 pic.twitter.com/1RQosGpFfx

2017-04-25 16:32:56
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ミカコ @lovelove_pata

弘前公園の西濠を脇道に逸れて、公園の外を3分程歩く。 今日の一番の目的! この方に会いに来ました\(^O^)/ 津軽の軍師・沼田面松斎さん!初めまして! #津軽の武将勉強会 #おいでよ弘前 #誓願寺 pic.twitter.com/IsqgqTNEMh

2017-04-25 12:30:18
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東奥人 @aoren119

『北のまほろば(街道をゆく41)』(司馬遼太郎著、朝日新聞出版) 歴史紀行文。弘前津軽一円、青森、むつまでを旅し、津軽為信、太宰治、石坂洋次郎、葛西善蔵、菅江真澄ら津軽ゆかりの人々を語る。南部と津軽が同居する青森県での為信の光と影を歴史風土から巧みに描き出す。 #津軽の武将勉強会

2017-04-24 22:56:28
東奥人 @aoren119

『津軽太平記』(続) 来歴謎多い沼田面松斎にスポットを当て津軽を統べるための知恵者を求めた為信と面松斎の運命的邂逅と以後主従の奮闘を描く。面松斎が天海僧正と知己である点の小説的恣意や秋田実季の年齢設定がおかしいなど杜撰な点もあるが津軽史観から大きな虚構はない。 #津軽の武将勉強会

2017-04-24 20:05:22
東奥人 @aoren119

『津軽太平記~みちのくの鷹・津軽為信一代記』(獏不次男著、東奥日報社2002年) 歴史小説。東奥日報の新聞連載から出版され、絶版後河出書房新社から2005年再販。津軽為信一代記とあるが物語のもう一人の主人公は為信が鷹ならばその鷹匠たる沼田面松斎祐光である。#津軽の武将勉強会

2017-04-24 19:56:26
東奥人 @aoren119

『奥羽・津軽一族』(新人物往来社、白川亨著、発行年2000年) 著者は石田重成の子孫。先祖である三成と重成を研究する内、津軽の歴史に関わり本書を記す。為信の来歴、津軽一統戦の年代を津軽南部双方の史書と照らし合わせ検討しつつ、十五代承昭までの事績を解説している。#津軽の武将勉強会

2017-04-24 12:31:29
東奥人 @aoren119

さらに蛇足ながら、政氏を討った後為信は千徳氏の墓をも暴こうとし、千徳氏の檀家寺の僧・常縁が抗議のため浅瀬石川に身を投げた。 その河原は常縁河原と呼ばれ、口伝され、その悲しみに江戸期のボサマ達が太棹で奏でた…じょんがら節は常縁河原の訛りであるという一説がある。 #津軽の武将勉強会

2017-04-24 20:53:56
東奥人 @aoren119

なお豊臣政権に誼を通じず謁見もせぬ政氏に近世大名の資格はなかった。似た事例に南部信直の協力者であり信直が秀吉拝謁中の留守を託された八戸政栄は家格が三戸宗家とほぼ同格でありながら豊臣政権は八戸氏を家来筋とした。政氏も為信の家来筋となるのを不服とし討たれたとも。 #津軽の武将勉強会

2017-04-24 20:47:08
東奥人 @aoren119

千徳政氏 浅瀬石城主。為信の挙兵後同盟を結び共に南部勢と戦った。天正一三(1585)年、南部勢東政勝の攻撃を領民総出の籠城戦で打ち破る。為信と津軽を切取折半するつもりであったがこの戦に為信が援軍を出さなかったため同盟に亀裂が走り、ついに堀越城にて騙し討たれる。 #津軽の武将勉強会

2017-04-24 20:34:35
ミカコ @lovelove_pata

千徳於市 夫への想いを語り、その文を祭壇に捧げると…彼女は己の胸に深く短刀を突き刺した。 今、於市は愛らしいキャラクターとなって嫁ぎ先・田舎館を盛り上げています。愛しい夫・千徳政武の魂を持った人と逢いたいと…願っているようです #津軽の武将勉強会 pic.twitter.com/XVkC3d7SIE

2017-04-24 00:51:43
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ミカコ @lovelove_pata

千徳於市 天正13(1585)年、田舎館城も攻め落とされ、千徳政武は郎党300人と共に玉砕。 夫を殺したのは、またしても津軽為信だった。 慶長6(1601)年。津軽統一を果たした津軽為信は死者の霊を慰める大法要を行った。その時気品ある女性が焼香に現れた。 #津軽の武将勉強会

2017-04-24 00:41:37
ミカコ @lovelove_pata

千徳於市(せんとく おいち) 和徳城主小山内讃岐の娘。元亀2(1571)年、大浦(津軽)為信によって和徳城は陥落、父・祖父・兄弟が戦死。15歳の時千徳政武に嫁ぐが結婚生活は短いものであった。(続) #津軽の武将勉強会

2017-04-24 00:36:03
おいでよ青森 @oideyo_Aomori

青森においでよ 一方その頃津軽では為信が大浦為則の娘と結婚して婿養子となり大浦家を継いでいたよ #永禄10年 #永禄11年説もあり #津軽の武将勉強会

2017-04-23 22:36:43
帆船ハッカ @kotosakikotoko

大光寺新城の近辺に一滝本って地名があって、瀧本播磨はその辺領したのかなぁ位は想像できる。あと実名の『重行』が正しいなら、大光寺氏の通字である『行』字を抱いているって事になり、また城代を任されてる事からも、一族衆とか側近とか、かなりの地位だったと想像できる。 #津軽の武将勉強会

2017-04-23 22:17:45
帆船ハッカ @kotosakikotoko

瀧本播磨守重行:戦国津軽史における強ヒール。大光寺氏の本城・大光寺の城代。乳井福王寺玄播を謀殺してその領地を簒奪するなど、その所業は批判的に書かれる。一方、一度は分進合撃で迫る大浦軍を強襲して散々打ち破り為信を戦死寸前に追い込むなど、大剛の人。 #津軽の武将勉強会

2017-04-23 22:06:51
東奥人 @aoren119

津軽と南部の齟齬2大浦為信の旗揚げ 史学会の判断は? 今もって決着付いてはいない(やや津軽側優勢?) しかし南部側の武将、南慶儀の書状(津軽の戦線状況を記した)の筆記年代が元亀三年と言われていたものが年代不確定となり、新史料の登場や研究成果が待たれている。 #津軽の武将勉強会

2017-04-23 22:01:03
東奥人 @aoren119

津軽と南部の齟齬2大浦為信の旗揚げ 南部側支持者の論 南部信直宛に豊臣政権の仲介役だった前田利家書状があり、ここに為信が惣無事令違反を示す文言がある。津軽側の主張のように元亀二年から戦いが始まっていれば天下公儀の豊臣政権が惣無事令発布前の私戦を取り締まるか? #津軽の武将勉強会

2017-04-23 21:49:07
東奥人 @aoren119

津軽と南部の齟齬2大浦為信の旗揚げ 津軽側支持者の論 為信の兵力動員力で南部側のいう僅か一年で津軽一統は出来たか?また南部側の主張では津軽独立運動は豊臣秀吉の惣無事令以降でかつ為信は小田原へ参陣していない。葛西・大崎氏の例からこれで近世大名にはなれないはず。 #津軽の武将勉強会

2017-04-23 21:43:21
東奥人 @aoren119

津軽と南部の齟齬2大浦為信の旗揚げ 南部側主張:石川高信の津軽郡代就任を元亀三年(1572)死因は病死としている。為信は高信の子の政信に取り入り娘を側室に差し出し、これを天正十七年(1589)娘諸共毒殺。以後浪岡北畠氏を含め一年の歳月で併呑し津軽を征服する。 #津軽の武将勉強会

2017-04-23 21:25:00
東奥人 @aoren119

津軽と南部の齟齬2大浦為信の旗揚げ 津軽側主張:元亀二年(1571) 、津軽郡代石川高信(南部初代藩主信直の実父)を周到に用意した奇襲策で討ち果たし、以後南部の津軽支配網の武将らと浪岡の名族北畠氏を討ち、天正十六年 (1588)まで十七年の歳月をかけ一統を完了 #津軽の武将勉強会

2017-04-23 21:06:31
東奥人 @aoren119

津軽と南部の齟齬1津軽為信の出自 南部側主張:為信は南部支族の久慈氏の出身で義兄と対立し津軽へ出奔。大浦為則に巧みに取り入り養嗣子となり大浦家を相続。大浦家もまた南部支族に過ぎず為信以前からの軍事行動は南部宗家への反逆に過ぎない。(※こちらが現在の定説) #津軽の武将勉強会

2017-04-23 12:50:20
東奥人 @aoren119

解説(続)故に津軽一統誌は大浦家も為信自身も出自を改竄。中世に陸奥にやってきた南部家より奥羽の主とし筋目ある奥州藤原氏の裔と称し、尚且つ近衛藤原氏の猶子になった藩祖為信に『御落胤』の箔までつけた。 理屈と膏薬の真骨頂と言えるが、とんだ『えふりこぎ』でもある。 #津軽の武将勉強会

2017-04-25 12:37:59
東奥人 @aoren119

主観入り勝手な解説。津軽氏は改姓前の大浦家の史料が高岡城五層天守の落雷出火で焼失しており、四代信政の代に編纂された『津軽一統誌』が基礎史料となる。江戸時代になり忠孝を重んずる価値観で南部支族の大浦家が謀反で主家から土地を奪ったのは世間に聞こえの悪い話だった。 #津軽の武将勉強会

2017-04-25 12:31:42
東奥人 @aoren119

津軽と南部の齟齬1津軽為信の出自 津軽側主張:為信は大浦支族の子であり、陸奥へと旅をし津軽へ立ち寄った近衛藤原摂関家の落とし胤だとする。その才覚を買われ本家大浦為則の養子入り。そして大浦家の出自もまた奥州藤原氏の末裔であり津軽切り取り失地回復であると主張。 #津軽の武将勉強会

2017-04-23 12:38:18
東奥人 @aoren119

津軽信義(続々) 気性の激しさから「じょっぱり殿様」の異名を持つが、強烈なリーダーシップで藩政に臨み、尾太鉱山開発など多くの改革を実行し次代信政の代にそれらが拡大発展したとする。 武芸・詩歌・書にも造詣があり、激しい性格ながらもその死後四人の殉死者が出ている。#津軽の武将勉強会

2017-04-21 12:29:24