#津軽の武将勉強会

津軽藩ゆかりの武将たちの色々をまとめてみました。 武将にまつわる話や、津軽クラスタさんオススメの本等を紹介しています。 知名度低いけど、全国に発信していきたい・・・! 興味を持った方は、是非!!!津軽においでよ。青森においでよ!
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東奥人 @aoren119

津軽信義(続) 襲封直後に大館から連れてきた家臣と旧来の津軽家臣団の対立(船橋騒動)や後年義弟信英を新藩主にしようとする(正保騒動)二度のお家騒動を経験。いずれも信義の気性の激しさに加え幕府隆盛の時代に謀反人三成の血筋を藩主とすることを危ぶんだためとされる。#津軽の武将勉強会

2017-04-21 12:23:07
東奥人 @aoren119

津軽信義 津軽藩三代藩主、土佐守。信枚と辰子の子として上州大館に生まれ石田三成の孫に当たる。幼くして母と死に別れ津軽藩江戸屋敷にて成長。信枚の英断で嫡子となり三代藩主。性格は激しやすく酒乱の気あり、酔って刀を抜く、諸大名の宴席でほらを吹くなど奇行も多かった。 #津軽の武将勉強会

2017-04-21 12:17:47
東奥人 @aoren119

笹森勘兵衛 解勘由。旧姓砂子背。石川城攻めにならず者83名を率いる将の一人として活躍。油川城攻めに功あり為信より若狭館を賜り笹森と改姓。後年大間越奉行の一人として国境に目を光らせ、海賊小野茶右衛門の乱も討伐し『鬼解勘由』と呼ばれる(長部日出男『津軽風雲録』より)#津軽の武将勉強会

2017-04-21 07:29:08
東奥人 @aoren119

乳井建清 乳井福王子別頭の子。父玄蕃は岩木修験や僧たちを束ね沙門大名と通っていたが対立していた大光寺城主滝本重行により暗殺。為信の決起に重行打倒の兵を挙げ臣従、ついにこれを討つ。南部勢の勢多石隠岐が津軽奪還に赴いた際は修験者らの山岳ゲリラで苦しめ敗走させている。#津軽の武将勉強会

2017-04-20 22:02:11
東奥人 @aoren119

小笠原信浄 伊勢守。大浦三家老の一人。出身は信濃小笠原家の流れとも。活躍した期間も長く為信の津軽一統に大きく貢献している。#津軽の武将勉強会

2017-04-20 21:20:54
東奥人 @aoren119

そういえば兼平綱則の事績を調べてたら、津軽家が川中島国替え騒動(未遂)の際にすでに隠居していた綱則が登城してきて国替え承諾の断固反対を声高に叫んだと書いてあって何か直虎のジジ様こと前田吟の顔が浮かんできたなw #津軽の武将勉強会

2017-04-22 09:13:15
東奥人 @aoren119

兼平綱則 中書。大浦三家老の一人。参加した戦場多く、大浦家の遠縁筋でもあり、隠居後も重要な国事にはよく参加したという。 粛清された森岡信元と違い、子孫の代も家老として津軽家に仕えた。 #津軽の武将勉強会

2017-04-20 21:15:51
東奥人 @aoren119

森岡信元 金吾。大浦三家老の一人。武断派の人間で戦場で多くの活躍をし、中央の情報を求めた主為信の命で出羽大宝寺氏(最上氏と長く言われたが、当時最上領には海がなかったため大宝寺氏と類推)との同盟の使者ともなった。後年主為信とそりが合わなくなり、暗殺されている。#津軽の武将勉強会

2017-04-20 21:10:51
東奥人 @aoren119

服部康成 長門守。伊賀出身で半蔵正成の成、徳川家康の康の字を頂くため、上忍で正成の縁者とも、庶長子とも伝わるが不明。関ヶ原後の大垣城攻めにて勲功を上げ家老格。『無類の良臣』と称される。一説には石田三成寄りの津軽家監視のために徳川家が派遣した付家老だったとも。 #津軽の武将勉強会

2017-04-20 12:45:40
東奥人 @aoren119

阿保良(続き) 賢妻の名も通り夫為信との仲も良好だったが、実弟(大浦直系の血筋)二人が水遊びの際に謎の溺死を遂げた後、夫が自らの地位を盤石にするため事故死を装って粛清したのではと疑い晩年は疎遠であったという。#津軽の武将勉強会

2017-04-20 20:00:14
東奥人 @aoren119

阿保良 戌姫とも。大浦為則の娘で為信が大浦家の養子になった折輿入れしている。旗揚げの石川城攻めの際に人数合わせのならず者兵たちに手ずから握り飯を持たせ、時には侍女らと鉛を鋳溶かし銃弾を作り、戦死した将の子等を引き取り養い子飼いの士へと育成し津軽のねねとの名も。#津軽の武将勉強会

2017-04-20 19:56:40
東奥人 @aoren119

沼田祐光 号して面松斎。津軽為信の軍師。生年不詳で為信に仕えるまでの履歴も不明点が多いが、上州沼田の人で陰陽道、易学、天文学に長け高岡(後の弘前)の街割を行ったとされる。石川城、大光寺城攻めに参加し、豊臣秀吉の小田原攻めに為信が沼津にて参陣した際も供奉した。 #津軽の武将勉強会

2017-04-20 12:27:33
ミカコ @lovelove_pata

辰姫 津軽信牧に嫁ぐも、徳川家康の養女・満天姫が津軽家へ降嫁されると、辰姫は側室に降格。しかし、津軽藩3代目藩主は辰姫が産んだ津軽信義であった。(辰姫は津軽家の所領・上野国大舘に移され、大舘御前と呼ばれた) #津軽の武将勉強会

2017-04-20 01:17:12
ミカコ @lovelove_pata

辰姫 石田三成の三女。豊臣秀吉死後は高台院(おね)の養女となる。関ヶ原の戦い後、兄の重成と共に津軽へ逃れた説・高台院の側近に従って江戸へ行き津軽信牧との縁組を整えた説がある。(続) #津軽の武将勉強会

2017-04-20 01:08:36
ミカコ @lovelove_pata

石田重成 石田三成次男。豊臣秀頼の小姓。 関ヶ原の戦いで父が敗戦した後、津軽信建の助けを借り津軽へ逃れる。その後は『杉山源吾』と名乗り津軽家の保護のもと津軽家に仕える。(現・板柳町にて隠棲したとも。石碑もある)彼の長男は津軽二代目藩主・信牧の娘を妻とした。 #津軽の武将勉強会

2017-04-20 01:01:09
ミカコ @lovelove_pata

津軽信建 津軽為信嫡男。烏帽子親は石田三成。豊臣秀頼の小姓。関ヶ原の戦いでは西軍につく。関ヶ原の戦い後、小姓仲間で烏帽子親の三成公の縁の人たちを蝦夷貿易ルートを使い津軽へ逃がす。自身は上方に残り、津軽家の外交要員として活躍した。父の命にてキリシタンとなる #津軽の武将勉強会

2017-04-20 00:54:45
東奥人 @aoren119

為信にとって幸か不幸かは、石川高信を討った後に黒幕だった晴政自身が死んでしまったことであり、その後南部信直が鮮やかな政治的逆転劇で南部宗家を継いだことである。後ろ盾も筋書きもないが、謀反人として走り出してしまった為信は己の才覚のみで津軽を切り取らねばならぬ。 #津軽の武将勉強会

2017-04-29 16:19:31
ミカコ @lovelove_pata

たか丸くん @takamarukun400 2011年に築城400年を迎えた弘前城の記念イベント『弘前城築城400年祭』のイメージキャラクター。そして弘前市のマスコットキャラクターである。 #津軽の武将勉強会 #津軽武将隊を作ろう pic.twitter.com/WTLejvJW7l

2017-04-30 04:19:39
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ミカコ @lovelove_pata

津軽の武将を知りたい、学びたいって事で出来たタグです。 津軽クラスタさん、どうぞご活用ください! #津軽の武将勉強会 そして、津軽武将隊の結成に結びつきますように…! #津軽武将隊を作ろう

2017-04-23 22:55:00