5/28 第87期「歴史文化教室」第3回「武田信玄と山本菅助」@YBS

6/3 海老沼先生のご講演から気になったことまとめ。
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日光81 @nikko81_fsi

今日は山本菅助の復習の回。 pic.twitter.com/nnJ5mNuWSg

2017-06-03 13:17:27
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日光81 @nikko81_fsi

武田信玄と山本菅助。わりとこれまで勉強してきているので知ってはいるけど、よい復習に。ひとつが高白斎記にある記述。天文13年3月に勘介召抱、天文18年正月、高嶋城鍬立の記述。これまでは近世に付け足されたものでは、とされていたらしい。

2017-06-03 16:00:18
日光81 @nikko81_fsi

しかしながら、高白斎記の後世の追加とされる多くは、高白斎記を伝えた栗原氏に関する記述が圧倒的に多く、栗原氏の立場を上げる意味での加筆する可能性は考えられる。。。のだそうで。龍岸寺開基の栗原氏と関係あるのかね。あるはあるだろうか。

2017-06-03 16:04:40
日光81 @nikko81_fsi

いずれにしても、甲陽軍鑑が一定の史料的価値を取り戻し、確実な文書史料が発見された現在、この勘介に関する2点だけをわざわざ(勘介ageする意味が乏しい)栗原氏が追加したのは確かに考えにくい。やるならもっとたくさんやるはずだよね、と。うむ。

2017-06-03 16:05:42
日光81 @nikko81_fsi

高白斎記自体はずっと知られていて、それこそ甲陽軍鑑を除いたら武田氏研究の根本史料のひとつなんだろうけど、こうして文書史料が発見されて新たな事実がわかることで、知られていた史料の確からしさも変わってくるというおもしろさ。

2017-06-03 16:08:31
日光81 @nikko81_fsi

甲陽軍鑑は例によって年代間違い多いので、軍鑑の天文12年正月って時期は間違いの可能性はあるけど、高白斎記が天文13年3月(1544年)とするのは可能性高そう。てことは、現在菅助最古史料からわかる天文17(1548年)年の伊那郡での活躍までは、菅助にとってつらい4年間だったかも。

2017-06-03 16:13:14
日光81 @nikko81_fsi

天文17年の上田原敗戦後の、佐久や諏訪西方衆の反乱を乗り越えて晴信の諏訪支配が完成するわけだけど、伊那で菅助が何らかの功績で押さえ込んだのは、敗戦後の苦しい状況を考えると「忠信比類なき次第」と晴信が激賞したのもうなずけ、百貫文の恩賞としたことからもわかる。

2017-06-03 16:22:50
日光81 @nikko81_fsi

でも、それまでは・・・・どうしてたんだろう。板垣の食客扱いだったのだろうか。天文17年の激賞以前はたまたま文書がないのか、はてさてそれまでたいした功績をたてられなかったのか。活躍できずにうぐぐ。。というときに、伊那での働きを認められてよっしゃぁぁとかしてる菅助を想像。

2017-06-03 16:25:37
日光81 @nikko81_fsi

伊那での働きを認められて、よっしゃーーーー!!となってる山本菅助氏(イメージ) pic.twitter.com/Q7rERStiyX

2017-06-03 16:28:19
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日光81 @nikko81_fsi

そして、次に興味深いのが菅助の城郭普請への関与。これも高白斎記に「高嶋ノ城鍬立」があるのがあまり注目されてこなかったところから。軍鑑にある「城取=築城術」を買われて召抱えられたという経緯、伊那郡での成果から隣接する諏訪郡の拠点に関わるというのは確かにありえること。

2017-06-03 16:32:31
日光81 @nikko81_fsi

武田時代の高嶋城(茶臼山城)はあまり遺構が残っていない様子。実際に縄張りに関わった釜ではわからないものの、いわゆる後世の武田らしさの片鱗があったかどうか気になるところ。おそらく菅助が築城に最初に関わった城ではないだろうか。

2017-06-03 16:37:39
日光81 @nikko81_fsi

いや、高嶋城よりも高遠城のほうが早いか。いずれにしても高嶋城や高遠城の古い時代の姿がわかれば、初期の菅助縄張(かもしれない)の考え方が見えてくるかもしれない。

2017-06-03 16:45:21
日光81 @nikko81_fsi

個人的には永禄初年ころまでにはできていたんじゃないかと思う岡城は、案内板にある馬場美濃ではなく、(年代的に)山本菅助の築城じゃないかと思ってるんですが、丸馬出の最初を考える上でちょっと気にしておきたいポイントでした。

2017-06-03 16:41:10
日光81 @nikko81_fsi

二代目菅助が生まれる前に、饗庭氏から養子に入った山本十左衛門尉。信玄の命により、という点から山本菅助家は、一時の雇われ者ではなく(=知行を与える対象ではない)将来にわたって武田家の家臣として存続するべき家として認められたという解釈にうなずく。この頃に百貫文が知行地したのかも、と。

2017-06-03 16:50:17
日光81 @nikko81_fsi

菅助が小山田備中や真田弾正とタッグを組んで、信濃戦線の前線で活躍する軍事のプロだったのに対し、十左衛門尉が直参衆として天正壬午起請文に出てくるのも興味深い。長篠後に配置転換があったか(二代目も詳細不明ながら初代と同じ立場だった可能性)、出自の饗庭氏の立場を継承したか。まだ謎。

2017-06-03 16:54:32
日光81 @nikko81_fsi

菅助実子の二代目菅助は23歳で長篠で討死するんですが、初代が川中島で討死のときに幼少だったという点も含め。沼津山本家の記録と甲陽軍鑑の記録がほぼ一致。沼津家の系図では信玄から菅助を名乗るようにと命じられるけど、近習に取り立ててなかったとしたらそこまで光らなかった?

2017-06-03 17:02:40
日光81 @nikko81_fsi

長篠戦死者の後継対策はとにかく戦える人物に継がせるという意図があったよう(真田も信綱嫡子の与右衛門ではなく昌幸が継承したように)で、二代目菅助以外に実子があったかもしれないけど、二代目後見で養子の十左衛門尉が継いだとしたら、高根町の勘助屋敷や供養塔はそちらの系統なのかな。

2017-06-03 17:04:37
日光81 @nikko81_fsi

高根町の勘助屋敷、供養塔はこちら。arcadia.cocolog-nifty.com/nikko81_fsi/20… ここに伝わる戒名、川中島の勘助墓と同じく「天徳院武山道鬼居士」で一致するそうですよ。

2017-06-03 17:08:09
日光81 @nikko81_fsi

外部から信玄に取り立てられて飛躍した中で、信玄前半は山本菅助、後半は真田昌幸が特に感心が強くて(四名臣やその他の皆さんの登用経緯も勿論関心強いですが)、甲陽軍鑑で語られる信玄ー勘助の問答などすごく好きなんでで、菅助の足跡はもっと研究が進んでほしいですね。史料もっとでてこーい!

2017-06-03 17:12:15
日光81 @nikko81_fsi

さて、最後に講師の海老沼先生からビッグニュース!今年の冬2017年12月2日(土)~翌2018年2月26日(月)まで安中市ふるさと学習館企画展として、山本菅助に関する企画展示があるそうです!ちょーーーー楽しみにしてます!

2017-06-03 17:14:40