宮崎裕助『判断と崇高』読書メモ集
- arishima_takeo
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美的なものの一切を否認し、純粋に政治的であろうとする決断の政治は、それゆえにこそ、さらなる政治の美学化に無防備であり、それどころか、決断の正当化のために、いっそう隠された美学化の密輸入に加担することになるのだとしたら? by宮崎裕助『判断と崇高』
2017-06-16 16:51:07宮崎裕助が、『判断力批判』が難しいのは、理性や悟性と違って、判断力がそれ自体確定できる立法の力能ではなく、要請はされてるが試行的にならざるえない橋渡しの力だからだ的なことを述べているが、これってロールズの反照的均衡が訳分からん記述になっていることとパラレルな気がする。面白い。
2017-06-17 09:35:35法の効力は、判断の有限性、すなわち、判断行為の一回性、偶然性、特異性によってしか存在しない。この有限性なくしては、判断すべきことは何ひとつなくなってしまうだろう。by宮崎裕助『崇高と判断』
2017-06-17 21:30:37「規定的判断力は、反省的でもなければならない」(宮崎裕助『崇高と判断』)。えっ、そうだったのか…もうチンプンカンプンだよ。
2017-06-17 21:50:39ドゥルーズが『カント批判哲学』で、腸チフスの概念を知ってる(規定的判断力)が、実際の診断はしたことない医者の例(反省的な規定的判断力)を挙げているらしいが、この例は分かりやすいな。
2017-06-17 21:56:03構想力は崇高なものの暴力の主体であるとともに対象であり、感性に対する暴力は、崇高なものの感性的呈示を担う「構想力自身によって」(KU269)行使されるのである。by宮崎裕助『判断と崇高』
2017-06-18 09:32:25「リオタールにとって、カントの『判断力批判』は、美をめぐる趣味の美学のみならず、崇高論を含んでいるということが決定的に重要である」(宮崎裕助『判断と崇高』)。ポストモダンはモダンの次にあるものじゃなくて、モダンに内在する未知の側面を拓いていくもの、とも関係する。
2017-06-18 17:07:18つまり、アレント的趣味判断的政治とは別に、『判断力批判』にはポストモダン=崇高の政治が秘められているのでは、という論旨なのかな?
2017-06-18 17:08:21時間錯誤として示される予期不可能性、計算不可能性、決定不可能性、この不可能性によってこそ、政治的判断というものがはじめて可能になるのである。by宮崎裕助『判断と崇高』
2017-06-18 17:17:02宮崎裕助『判断と崇高』。美の政治でも崇高の政治でもない「到来すべき政治」。これが論理的に出てくるのは分かる気もするのだが、今一つピンとこない(「到来すべき政治」がスローガン化して動員するのが崇高の政治じゃないの?という疑問もある)。
2017-06-18 17:24:18「決断概念を尖鋭にすればするほど、ますます「何を決断するのか」「何のために決断するのか」についての、当の決断の具体的な内容はどうでもよいものになってしまう」(宮崎裕助『判断と崇高』)。うん、これは鋭い指摘だね。
2017-06-18 18:10:49レーヴィットは、決断主義をすぐれて特徴づける(ハイデガーの受講生があるとき考えついたとされる)ある「卓抜なジョーク」に触れているが、それは次のようなものであった――「おれは決断したんだぞ、なんのためにかはわからんが」。by宮崎裕助『判断と崇高』
2017-06-18 18:13:01シュミットの決断は積極的決断(決断できるオレかっこいい)だけどデリダの決断は消極的決断(かっこよくないけど負わざるえないじゃん?)。メモ。
2017-06-18 18:31:10宮崎裕助『判断と崇高』読了。途中挫けそうになったけど、何とか最後まで到達した。最後のシュミットvsデリダ論が面白く、またずっと展開されていた『判断力批判』論と重なっていることは分かるのだが、えっと、決断論では表面上では判断力は念頭に置かれてないんだよね?
2017-06-18 19:12:26できればアノ話はコノ話に対応しているよ、と注釈してくれると、前半難儀した読者にとっては遡行的に分かりやすくなると思うのだが…まぁそんな対応表なんて各人で造れよって話だな。刺戟をもらいました。
2017-06-18 19:14:14あと、宮崎さんは学部のころ梅木達郎の世話になっていたらしい。梅木達郎って私、結構好きな書き手なんだよな。惜しい人だったね。
2017-06-18 19:17:42