石巻の歴史(石巻市史)を主な種本とする、葛西晴信についての記述と時々雑考察(ちょっとだけ大崎氏)

戦国期中奥でも大きな勢力を誇った葛西氏と葛西晴信についてのツイートを話題になりそうなのを雑にまとめただけ
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

・『政宗が秀吉より取り付けたかった最大の確約は、自家の安泰を含む南奥体制維持の承認であった。政宗は7月、葛西晴信・その臣の葛西流斎・三迫の富沢日向に小田原での首尾を書状をもって報じているが、その中で「奥州の儀は申すに及ばず出羽に至るまでも、仕置は政宗に仰せ付けられ」と述べている。

2012-08-22 17:06:32
帆船ハッカ @kotosakikotoko

したがって政宗は、南奥の諸家の安堵・改易の権限を、奥州探題たる自分に付託されたという意識を持っていたのである。晴信はこの段階で、政宗を盟主とする南奥同盟の秩序が承認され、葛西家自体の存続が保証されたと解釈したと思われる。』

2012-08-22 17:07:35
帆船ハッカ @kotosakikotoko

・だが『参礼しなかった葛西氏を含む南奥同盟の諸家は、ことごとく改易処分となるのである。政宗にとっては、これは大きな誤算であったと言わざるを得ない。』

2012-08-22 17:07:56
帆船ハッカ @kotosakikotoko

補遺:ちなみに天正15~16年の政宗書状では、葛西氏への書状は名前と同じ高さと一段下がりが混在している。天正18年の書状では、葛西氏は日付から一段下がり「葛西殿」宛となっている。伊達に対して葛西は目下になりつつも、いまだ自立的な立場にあったと考えられるか。

2012-08-31 20:37:04
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あと天正17年9月の葛西晴信宛・最上義光書状だと日付と同じ高さで『葛西殿』

2012-08-31 20:37:25
帆船ハッカ @kotosakikotoko

葛西氏やるならまずは『石巻の歴史』をお勧め。そこにずらりと並ぶ偽文書目録に眩暈するのが楽しいよ(はぁと) それから偽文書を積極的に取り入れている岩手県史とか読むと、『ど、どういうことやねん』……と震えが走る。

2013-07-11 21:45:46
帆船ハッカ @kotosakikotoko

葛西さんの史学研究は、偽文書との戦いと言っても過言じゃねえからなぁ。

2013-07-11 21:48:35
帆船ハッカ @kotosakikotoko

偽文書排除すると葛西晴信の年齢や活動年代すら変わるという恐ろしい結果が出るんだぜ、あれ。

2013-07-11 22:26:49
帆船ハッカ @kotosakikotoko

伊達牛猿丸(葛西晴胤)が葛西内部の抵抗を排除して入婿したのが天文10(1541)年で、その息子とされる葛西晴信はそれ以後の誕生という事になるよねぇ。

2017-01-24 20:18:12
帆船ハッカ @kotosakikotoko

ふと思いつき。奥羽仕置後の大崎葛西領の取り扱いの中で、大崎義隆を領地を1/3に削った上で帰還させるって構想があって(確か葛西氏にも)、これが実施することでこの地域の安定化を図ろうとしてたのかな、と。木村吉清は正式に知行分けが決まるまでは領主でもあり代官でもあったんかなーと。

2014-07-10 02:30:06
帆船ハッカ @kotosakikotoko

葛西大崎領の扱いは流動的で、木村吉清は30万石丸々与えられたわけでなく、正式な処置の決まるまでの管理人の面もあったのかな、と。ならある程度軽輩でも周囲で補佐しながら管理をやらせて、知行分けが決まったら正式に相応の領地を交付する、と考えていたとか。

2014-07-10 02:36:08
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あー、石巻市史も、木村吉清の領有は『預置』だったのではないか、って説を取っているのか。大崎さん(葛西さんも)への領地没収はあくまで仮の決定で、大崎氏に対する3分の1の宛行が決定するまでは大崎氏の身上をどうするかは未決定だった、と。

2014-07-10 10:03:50
帆船ハッカ @kotosakikotoko

葛西氏については3分の1の宛行があったのかは、大崎氏みたいに証拠は無いけど、伊達さんが『葛西身上之事』で奔走しているから、やっぱりこれもどうなるかは流動的だったんじゃないか、と。

2014-07-10 10:06:00
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あと天正16年の乱は大方鎮圧されているわけで、『葛西晴信は北方を警戒して豊臣に使者を送れなかった』とするのはちょっと筋悪いと思うの、実際に伊達政宗と浅野長吉を通じて出仕を模索しているわけだし。

2017-01-29 12:09:54
帆船ハッカ @kotosakikotoko

『伊達氏を背景に地域の武士による新秩序を模索した葛西晴信と、豊臣政権に服従する事で生き延びようとする南部信直とは、好対照をなしている。いずれが賢明だったかを論じるのは歴史研究の分限を超えている。

2016-11-06 01:01:30
帆船ハッカ @kotosakikotoko

ただ、この二つの選択肢は晴信や信直のみならず、多かれ少なかれ奥州武士に共通するものだったことだけは確かであろう』(県史3 岩手県の歴史 山川出版社)

2016-11-06 01:01:44