沖縄戦その後

6月23日を境に、沖縄での戦争が完全に終わったわけではありません。その後も、住民や日本軍は山の中や壕に隠れ続け、捕虜になることを拒み、命が失われてゆきます。日々、何が起きていたか。各種の資料から再現します。
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谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月18日@本島 日の丸をつけた飛行機が沖縄上空を飛んだ。日本軍の発表。「我が航空部隊は敵基地並びに艦船に攻撃を加えた。北飛行場に火災を生ぜしめ、巡洋艦1隻および輸送船1隻を撃沈」。だが同じ日の米軍レポートは淡々とこう語る。「日本軍航空機が接近し、空襲警報が発令」

2017-07-18 09:52:24
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月19日@東京 「学徒隊/熱情を沸らせよ」と題した記事がこの日の朝日新聞に載る。各地に組織されつつある学徒隊の重要性は「沖縄における師範学徒、沖縄一中生徒達の活躍ぶりを見ても明らか」とし、「今こそ学徒達の盛り上がる救国の赤心が要求されている」とあおった。

2017-07-19 10:21:36
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月20日@東京 終戦を図る日本は、天皇メッセージを携えた特使の派遣をソ連に打診していた。この日、先方からの回答が外務省に届く。「メッセージ中に述べられたる思し召しは何ら具体的提議を包含し居らざる(略)回答をなすこと不可能なり」。約3週間後には宣戦布告される。

2017-07-20 09:58:51
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月21日@宜野座 収容所内の初等学校には450人もの児童がいた。着物がない子のために、校長の新屋敷文太郎さんが米軍から布をもらい、女の先生たちが仕立てた。ボタンのかわりに貝殻を使った。3日で51枚が仕上がり、この日、配った。純白の上着に子供たちはニコニコ喜んだ。

2017-07-21 09:46:42
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月22日@徳之島 フランク・コリンス少佐は、日本の捕虜になっていた。航空出撃拠点の伊江島での日常生活について、憲兵隊の尋問に答える。「7時30分朝食(タマゴ、牛肉、ベーコン、フルーツ汁、パン、ジャム……映画は毎夕20時より幕舎付近にて」。日本軍は何を思ったか。

2017-07-22 09:46:31
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月23日@糸満 本島南部・国吉の壕に潜み続けていた歩兵32連隊の北郷格郎大佐は、残存部隊約180人の移動を決意した。目指すは北部。8月7日までに安波地区に集結せよとの命令を発し、この夜、脱出の先遣隊として甲田獣医大尉らを連隊本部から送り出した。

2017-07-23 10:10:46
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月24日@知念 英語教師と身分を偽って捕虜になっていた八原博通・高級参謀に、米軍の出頭命令が来た。バレたかと焦りながら「すぐ帰ってきます」とこの朝、別れを告げた。だが米軍報告書によれば、既に住民から「何もせず一人前に文句を並べる妙な男」と経歴を疑われていた。

2017-07-24 09:26:15
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月25日@本島 「慈愛深き米軍司令官閣下に」と始まる嘆願書を沖縄出身の捕虜代表が提出した。「(日本軍によって)ある者は爆雷を担がされ、ある者は糧食を奪われて飢餓に苦しみ、ある者はスパイ視されて惨酷な銃殺を受け……願わくば沖縄人に対し特別の慈愛をお恵みください」

2017-07-25 05:24:02
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月26日@石川 ポツダム宣言が発表されたこの日、米軍の機関紙として「ウルマ新報」第1号が収容所で発行された。週刊2ページ。「米軍の宣伝をする新聞をつくるとスパイ扱いされるからご免だとは思ったが、断ると銃殺されるかもわからず、否応なかった」。のちに琉球新報に。

2017-07-26 09:12:15
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月27日@大里 一人ぼっちになった沖縄一中の玉栄貞信さんは、大里城跡の崖下に隠れていた。そこへ敗残兵狩りの米軍がやってくる。逃げ回った末に退路を絶たれた。銃声。右腕と左肩を打ち抜かれ、ついに捕まった。殺される。そう思っていると、米軍は応急手当を始めた。

2017-07-27 08:30:16
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月28日@東京 ポツダム宣言を拒めば重大な結果を招くとして、記者団にはノーコメントで通すと確認していたにも関わらず、鈴木貫太郎首相は「政府としては重大視していない。ただ黙殺するのみ」と答えてしまう。背後には軍の強硬姿勢があった。これがソ連参戦の引き金となる。

2017-07-28 10:08:31
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月29日@八重山 軍による疎開命令は解除されていたが、いったん広まった住民のマラリア禍はおさまる気配を見せなかった。吉田久一・一等兵は記す。「毎日多くの火葬場への葬列を見、軒並みにマラリヤに呻吟する八重山の民衆を見、孤島の歴史の現実を思いて暗然たり」

2017-07-29 10:47:52
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月30日@北上原 前田高地で戦った32連隊第2大隊は、驚くべきことに近くに潜み続け、米軍車両を奪う計画を練っていた。この日、闇に紛れて近づく気配があった。「山」「川」。相手は何と全滅したはずの連隊本部を名乗る。糸満からきた甲田大尉らだった。双方が驚いた。

2017-07-30 10:02:40
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月31日@本島 ポツダム宣言を受け入れるべきか否か。政府の態度が決まらぬ間も、死者は続く。この日の米報告書。「本島北部―日本兵4人を殺し、2人を捕らえる。2人が崖から飛び降り自殺。南部―日本軍との接触は極めて少なく、8人の日本兵を殺し、3人の軍夫を捕らえただけ」

2017-07-31 10:15:30
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月1日@伊原 ひめゆり学徒の玉那覇幸子らは、食糧があると聞きつけ、いまのひめゆり資料館前の第三外科壕に来た。ぶらさがったミイラの横を通り、壕内へ。奥を照らすと、多くの遺体があった。岩陰で横になった。転がる白骨が、かつての先生や学友だとは「思いもよりませんでした」

2017-08-01 09:34:49
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月2日@津嘉山 沖縄を台風が襲った。本島北部へ逃げようと、沖縄一中の比嘉広好と家族は夜、荒天をついて米軍の幕舎のあいだを突破した。すると、前に道が。米軍トラックの往来が激しい。路傍の草むらに潜みながら、流れを見はかり「いまだ!」。横殴りの雨の中、次々と渡った。

2017-08-02 10:42:01
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月3日@沖大東 孤島には、いまだ200人を越える日本軍が駐留していた。台風一過の好天。被害を受けた芋畑の開墾で、朝7時半から夕5時まで作業にいそしんだ。その頭上を、飛行艇やB29など計22機の米軍機が沖縄本島の方角へ波状的に飛んでいく。なすすべもなかった。

2017-08-03 09:43:36
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月4日@コザ ひめゆり学徒の津波古ヒサさんは、米軍がつくった孤児院内の小学校で1年生の担任になっていた。この日、子供たちと遊んだ。目隠しで周囲を探る女の子を、まわりの児童が拍手ではやし立てる。みんな笑顔。しかし夜になると、子供たちは親の名を呼び、泣いていた。

2017-08-04 10:01:42
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月5日@東村 山里将林さんは、やんばるの山の中に避難していた。パパイヤの根、山蕗など、身の回りのものはあらかた食べ尽くした。「友軍は6月に全滅したと聞く」。山から出たい、でも捕虜にはなりたくない。しかしとどまれば食糧はなくマラリアが待っている。「どちらをとるか」

2017-08-05 10:19:41
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月6日 米軍に呼ばれた八原博通高級参謀は、日本人の尋問官にこっそり本当の身分を明かした。が、尋問官は躊躇なく米軍に告げる。「犬!」と叫ぶ八原氏……だがこの日、八原氏は尋問に対し自らを誇るように沖縄戦の用兵の理をとうとうと語った。米軍は13ページの調書にまとめた。

2017-08-06 09:03:33
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月7日@沖永良部 沖縄からクリ舟で脱出した森杉多兵長が軍の無線機のダイヤルを動かす。内地のラジオが聞こえてきた。「広島に新型爆弾。被害は調査中」。だが、この期に及んでも軍は変わらない。森兵長らは脱走兵とみなされ、沖縄奪還のために逆上陸せよとの命令を受けていた。

2017-08-07 10:03:51
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月8日@モスクワ 終戦への仲介を打診していたソ連から、ようやく面会日時の返信があり、この日、佐藤大使はモロトフ外相を尋ねる。モロトフ氏は大使の用件を待たず、用意していた文章を読み上げる。「ソ連政府は明日すなわち9日より日本と戦争状態にあるべき旨を宣言す」。瓦解。

2017-08-08 10:02:30
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月9日@読谷 「我々は沖縄に行き着くだけの燃料しかない」。長崎に原爆を落としたB29ボックス・カーは至急報で告げる。機体トラブルのうえ、第1目標の小倉上空で時間を費やしたことが原因だった。12時51分、沖縄の読谷飛行場に滑り込む。残り5分ほどの燃料しかなかった。

2017-08-09 10:49:54
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月10日@美里 米軍の野戦病院に入院していた池宮城秀意さんはこの夜、激しい銃声に驚いた。てっきり日本兵の襲撃だと伏せていると「ジャップ・サレンダー!」の声が飛び込んできた。日本が降伏した。外へ出ると、夜空いっぱいに歓喜の曳光弾が花火のごとく打ち上げられていた。

2017-08-10 10:13:10
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】8月11日@八重山 ソ連参戦の報は、遠く南の島にも達した。吉田久一・一等兵は記す。「先方が電撃的に来たらしい。戦争も最終段階に達したようだが、先方は先方、こちらはこちらと諦めている。町には孤児がうろうろしている」

2017-08-11 12:31:13