沖縄戦その後

6月23日を境に、沖縄での戦争が完全に終わったわけではありません。その後も、住民や日本軍は山の中や壕に隠れ続け、捕虜になることを拒み、命が失われてゆきます。日々、何が起きていたか。各種の資料から再現します。
7
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】6月23日を境に、沖縄での戦争が完全に終わったわけではありません。その後も、住民や日本軍は山の中や壕に隠れ続け、捕虜になることを拒み、命が失われてゆきます。日々、何が起きていたか。各種の資料から再現します。

2017-06-24 09:21:14
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】6月24日@喜屋武 「明日は必ず敵が来る」という声を聞きながら、山本義中少尉は夜、率いる負傷兵40人のために水くみに行く。「お~い帰ったぞ」。だが返事がない。硝煙と血のにおい。ローソクの灯りに浮かんだのは、手榴弾で自決した戦友たちのバラバラになった頭や手足だった。

2017-06-24 09:24:07
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】6月25日@東京 大本営発表。「牛島満中将は6月20日、敵主力に対し全戦力をあげて最後の攻勢を実施せり(略)22日以降細部の状況詳らかならず」。米軍は同じ日、正装に包まれた牛島司令官の遺体が石に覆われて安置されているのを、摩文仁の断崖で発見する。

2017-06-25 07:48:55
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】6月26日@阿嘉島 山に立てこもる日本軍が米軍の代表と海岸で会談した。米「降伏してもらいたい」、日「私一人では決められない」。島にいれば飢えるばかり。やりとりのうちに昼となり、米軍は船から取り寄せた食事を銀皿に並べ、盛大にふるまった。その翌日、休戦協定が結ばれた。

2017-06-26 09:44:18
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】6月27日@八重瀬 手足に重傷を負い、ウジにまみれて横たわっていたひめゆり学徒の屋比久淑子さんが捕虜になった。米兵の指笛で、大きな荷物を背負った兵が近づいてくる。「いよいよ生きたままガソリンをかけて焼き殺される」と激しく抵抗した。だが、やってきたのは衛生兵だった。

2017-06-27 09:28:57
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】6月28日@石垣島 沖縄本島での戦局を知らず「近頃三日ほど敵機がこない。どうしたことか」と日記に書いていた吉田久一・一等兵は、牛島司令官の決別の辞を上官から聞く。「これで我々は作戦圏外に置かれ、運命の子になった(略)生死また敵軍の意のままである」

2017-06-28 09:16:24
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】6月29日@久米島 米軍に連れ去られた住民2人が解放されたとの情報を聞きつけて、日本兵が夜、山から下りてきた。帰還者は米軍のスパイの恐れがあるので即刻連行せよとの通達に反した、と軍はみなした。住民9人を針金で縛り、銃剣で刺し、さらに家に火を放って殺害した。

2017-06-29 09:07:51
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】6月30日@東村 山里将林さんたちは、やんばる山中での避難を続けていた。留守の間に、わずかな食糧のソテツや服が、別の避難民に盗まれた。取り返そうにも「川で拾った」「買った」などと言い張る。口論の末、半分ずつ分けることになった。「それにしても人間のあさましいこと」

2017-06-30 09:29:04
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月1日@沖永良部 国頭支隊の生き残りの森杉多兵長らは、盗んだクリ舟で沖縄を脱出。6日目に沖永良部島についた。米軍の圧倒的な火力を目にしてきた彼らに、島の守備隊の将校は竹槍の稽古をしながら「戦争はこれからです」。島には百人を超える沖縄からの脱出者が既にいた。

2017-07-01 09:27:05
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月2日 米軍は6月23日から30日までの掃討戦だけで、日本兵8975人を殺害。そしてこの日、沖縄方面作戦の終了を宣言した。米軍の全戦闘死傷者は4万9151人。「沖縄で支払った代償は高価なものであった。予想したよりも非常に長引いた」と米陸軍省は報告している。

2017-07-02 07:26:19
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月3日@尖閣 石垣島から台湾へ向かう疎開船団を米軍機が襲った。機銃にやられた老人、泣き叫ぶ子ども、飛び散った人肉。燃料タンクがやられた1隻は、黒い煙をあげて燃え上がった。生存者を救出した残る1隻もエンジンをやられた。船は潮に乗り、北へ流され始める。

2017-07-03 09:23:46
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月4日@尖閣 台湾への疎開途中で米軍に襲われて漂流していた船の行く手に、島影が見えた。そそり立つ岸壁。魚釣島だ。わずかな米や味噌を陸に揚げて、無人島での生活が始まった。小さな動物もいない。口にするのは野草ばかり。助かった者もその後、衰弱で次々と死んでいった。

2017-07-04 10:01:11
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月5日@真壁 「ナー、イクサーウワトンドー」。もう戦争は終わったよという地元の娘さんの呼びかけで、壕にこもっていた約90人がぞろぞろと出て行く。沖縄一中4年の新垣英一郎もその中にいた。「外は目もくらむような陽の光が降り注いでいた」。米軍のトラックに乗せられた。

2017-07-05 09:49:01
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月6日@久米島 軍も民もいまだ山中に潜んでいた。日本軍は「山を下りる者は米軍に通ずる者として殺害すべし」とふれまわった。山にいるのが軍人だけとなれば、米軍は掃討戦をためらわなくなる。だから軍は下山を喜ばないのだと吉浜智改さんはこの日、書く。「民衆を脅迫す」。

2017-07-06 09:34:03
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月7日@北谷 捕虜になっていた鉄血勤皇隊の兼城一が、他の収容者たちとともに沖合の米輸送船に運ばれた。行く先はハワイ。ハワイ行きの一部は、服をすべて脱がされると海水のシャワーを浴びせられ、すっ裸のまま船倉に入れられた。用足しはバケツで。まるで奴隷の扱いだった。

2017-07-07 09:57:35
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月8日@東京 沖縄師範と県立一中は「学徒の模範だ」と文部省で表彰式が行われた。太田耕造・文相は言う。「本分をつくし皇国護持の大任に殉じたことは、全国の教職員及び学徒の重大なる覚悟を促すものといわねばなりませぬ」。本土決戦では同じ様に最前線に、と促すものだった。

2017-07-08 10:16:32
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月9日@中城 米軍の警戒線を突破して本島北部へ落ちのびる機会をうかがう野村正起一等兵らが道を進んだ。「何しに来た」。男の声がして、数人の住民が立ちふさがった。「出て行け」「おまえたち兵隊が来たために、沖縄がこんなになったのだぞ」。怨嗟の声に棒立ちになった。

2017-07-09 09:53:01
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月10日@石垣島 吉田久一・一等兵の兵舎は火葬場に近かった。リヤカーに乗せられた棺の数がやけに目につく。「栄養失調とマラリヤで死んだ葬式が馬鹿に多い」。マラリヤの予防薬もない。食べるものがなく体力もない。「1日に1人は死ぬとのこと」と別の日には書き残している。

2017-07-10 10:16:15
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月11日@本島北部 上陸直後の米軍と4月に交戦した数少ない部隊、特設第1連隊の青柳時香中佐は北部に退き、生き延びていた。だが、この日の米軍レポートは、こうつづる。「捕虜の一人が偵察隊を率いて青柳中佐の隠れ家に案内。中佐と中尉1人、兵士2人が逃亡。全員射殺する」

2017-07-11 11:26:00
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月12日@東京 文科省が学徒動員局を新設した、という記事が載る。政府は「一億国民をして真に皆兵に徹す」と、15~60歳までの男性と17~40歳の女性を根こそぎ徴兵できる「義勇兵役法」を6月23日に公布していた。沖縄戦はいわば、これを先取りした先例であった。

2017-07-12 08:33:37
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月13日@中城 野村正起一等兵が夜、米軍の警戒線の突破を試みた。突然、稲妻のような閃光が走り、木々の黒い影が浮かび上がる。銃弾が浴びせられ、野村一等兵の肩をつらぬいた。右腕がきかない。「俺の一生もこれで終わりか」。こだまする米兵の声の中を何とか生き延びた。

2017-07-13 08:03:35
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月14日@金武 屋嘉収容所では、捕虜を出身地で沖縄・日本・朝鮮と区別して収容していた。「沖縄」の隊長だった山田有昂氏は、朝夕の点呼の記録をとっていた。この日の朝、収容者は639人だったが、夕方には663人に。「沖縄出身と身分を偽る日本兵が随分いた」と書いている。

2017-07-14 09:45:23
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月15日@石川 南部で投降し、捕虜となった県立一中の教頭の野崎真宣・美子夫妻の間に女の子が産まれた。長女・陽子。体重は1875グラムしかなかった。美子さんは砲弾から逃げ回るあいだ、何度もお腹を打った。「この子がいなかったら、私は生きていく希望を失っていたと思う」

2017-07-15 12:30:30
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月16日@今帰仁 米軍は、生き残った住民の中から村長役を指名していた。その米軍の命に従う住民の名を、山にこもる日本兵は、殺害リスト化して手帳に書き留めていた。板挟みの住民。そしてこの日。「与那嶺静行と彼の妻と弟静正が(日本兵に)呼び出されて惨殺された」とある。

2017-07-16 08:43:13
谷津憲郎 @yatsu_n

【沖縄戦その後】7月17日@渡嘉敷 村の学校の先生だった崎間義郷さんは、島の山につくった小屋にこもっていた。もう食べるものがない。眼下に米軍の艦隊を見ながら、食糧にするためにソテツを切り倒しに行く。「午後五時頃より阿良里へ」。切っては乾燥させ、じつに2週間も続けた。

2017-07-17 11:04:06
1 ・・ 4 次へ