ハプスブルク家・雑記(フェルディナンド2世とルドルフ2世を中心に)メモ

(フェルディナンド2世とルドルフ2世を中心に)メモ
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はくえー【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院@12月11日に歴クラBAR(詳しくは固定) @tomoshibi6o6o

皇帝ルドルフ2世 父帝は多くのことに興味を示したが、ルドルフの場合は「脅迫観念」のような情熱を示した プラハ城にこもり、錬金術に傾倒するさまは「狂気」であり、従叔父フェリペ2世が聖者の指と聖衣の断片を求めたのに対し、ルドルフ2世は希少な宝石と奇妙な機械を執拗に探求した

2017-07-04 22:33:25
はくえー【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院@12月11日に歴クラBAR(詳しくは固定) @tomoshibi6o6o

皇帝ルドルフ2世、生涯未婚で嫡子なしゆえに同性愛者だったのではないかという指摘もあるが、6人ほど庶子はいたようだ。 庶子ジュリアス・シーザー(1584/85-1609)は当時一線級の教育を受けるも精神病を患い1608年に殺人事件を起こし、父帝は息子に終身刑を命じた。

2017-07-06 22:38:51
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「酔っぱらった怒りに陥った後、ジュリアスは彼のしもべの一人を刺し」 「凶暴になって彼女を刺し始め、耳を切ったり、片目を切ったり、歯を切ったり、頭骨を割ったりして」 「彼は部屋の周りに肉の部分を投げつけた。3時間後、彼は狂気から回復し、彼女にリネンを包んで捨てた」

2017-07-06 22:48:13
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庶子ジュリアス・シーザーは数多いるルドルフ2世の庶子の中でも特に父から目をかけられ、王立裁判所の職務を与えようとしたり、更に城を与えられて「ドン・ジュリアス・シーザー・デ・アウストリア」を名乗る権利すら与えられした。

2017-07-06 22:44:29
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記述を信じれば、「ドン・ジュリアス・シーザー・デ・アウストリア」はフェリペ2世とドン・フアン・デ・アウストリアのように、ルドルフ2世から認知されてたのだろう。

2017-07-06 22:46:05
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皇帝ルドルフ2世、スペイン留学中にドン・カルロス(フェリペ2世の長男)に会っていたのか (「ドンカルロスのことを会話や祈りの中で言及することは禁じられ…」)

2017-07-06 22:52:42
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スペインから戻った息子ルドルフたちに、皇帝マクシミリアン2世は「フェリペ2世のように」すっかりスペインの気風に染まったのを見て、変わるようにと言ったが遅すぎた…マクシミリアンは帝位継承の心配を始めた。既に皇帝は健康、心臓のトラブル、痛風の痛烈な痛み、腎臓疝痛の発作に苦しんでいた。

2017-07-06 22:55:40
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ルドルフ2世がスペインに留学していたのは11歳から19歳(1563〜1571年) 秘密主義者であり、鬱病(ハプスブルク線で一般的だった、という記載)に苦しみ、年を追うたびに悪化して引きこもるようになっていった。

2017-07-06 22:58:04
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フアナ狂女王、ドン・カルロス、ルドルフ2世、庶子ジュリアス… これにカール5世やフェルディナンド2世を加えていいのかわからない(そういう話がある)が、精神病が多い…

2017-07-06 23:06:50
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1577年、ルドルフは最初の感情障害に苦しみ、ひどく欝になり城を出なかった

2017-07-06 23:17:58
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1590年代、不安と深い憂鬱感を持つルドルフのメランコリックな気分はますます頻繁に…不安を感じ、気分が悪くなり…家族が自分を殺そうと計画しているという確信を持つに至った。 外国の大使と謁見することを拒否し、閣僚の1人を短剣で脅かした。 統合失調症になっていたのではないかという。

2017-07-06 23:23:30
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1595年に王位継承第一位であった弟エルンストが没すると、代わってその弟マティアスが継承者となった。 しかし皇帝ルドルフ2世はマティアスを憎み「マティアスを屈辱にさらす機会」を狙い、結婚の許可を許さなかった。 (結婚が許されたのは1611年になってから)

2017-07-06 23:27:32
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ルドルフ自身はスペインのイサベルと婚約していたが、年々延期された。 結局イサベルは1598年、ルドルフの弟アルブレヒトと結婚した。

2017-07-06 23:29:13
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「長年に渡り、ルドルフの気分は、活気に満ちた関わりと深刻なメランコリー、パラノイア、コントロール不能な怒りの問題との間で揺れ動いた」 「ルドルフは部下が背信していると確信し(?)、多くの召使いを解雇、他の人たちを数日間裁判所から追放した。数ヶ月の間後、ルドルフの激怒は沈静化した」

2017-07-06 23:33:35
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上記は1599年か 「7月にプラーク(地名か)で疫病の発生後、パニック状態で逃げた」 「(翌年)6月16日にルドルフはプラハに戻り、しばらくの間、彼は狩りをしていた…しかしすぐに、彼は幻覚を開始し、毒殺されると主張して繰り返し自殺を試みた。一度壊れた窓ガラスの部分で喉を切ろうと」

2017-07-06 23:37:25

※プラーク=プラハ(フォロワーさんから教えていただきました)

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人事の異動により9月には政府が麻痺し、すっかりルドルフは人目につかないよう生活空間を覆って、全く観察されないようにして「食事を一人で、まったく同じ時間にまったく同じ部屋で」食べた。

2017-07-06 23:39:12
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ルドルフ2世がハンガリー憲法とプロテスタントの宗教的自由を奪い取ろうとしたためハンガリー貴族ボチカイ・イシュトヴァーンがオスマン帝国スルタンの支援を受けた(実情はハンガリーの支配を強めようとしたため)…兄を見かねたマティアスはルドルフ2世を放置してウィーン条約を結んだ。

2017-07-06 23:44:40
はくえー【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院@12月11日に歴クラBAR(詳しくは固定) @tomoshibi6o6o

1608年 マティアス、プラハに進軍し、オーストリア大公に就くことを兄に署名させる。 1611年「11月11日、ルドルフは帝位の放棄に署名し、ペンを床に投げつけた。」

2017-07-06 23:49:04
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ルドルフ2世は1611年12月には鬱血性心不全浮腫に苦しみ、翌1620年1月20日に崩御した。

2017-07-06 23:50:07
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約316年後、1928年に開封され、ルドルフ2世の棺とその内容の最初の徹底的な検査が行われた。

2017-07-06 23:51:05