個人的メモ 『伝承と史実のあいだに―津軽安藤氏・津軽下国氏・桧山下国氏・湊氏の場合―』小感想

個人的メモ。これだけだとはっきり言って内容分からないので論文読んだ方がいい。
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

研究紀要 第二十三号 ・鈴木 満 伝承と史実のあいだに-津軽安藤氏・津軽下国氏・桧山下国氏・湊氏の場合- pref.akita.lg.jp/pages/archive/…

2017-07-08 09:10:35
帆船ハッカ @kotosakikotoko

鈴木満センセが斉藤利男センセの研究をどうとらえてるのか気になる。八戸が宗主であった、というのは構わないのだけれども、15世紀末の三戸南部氏の伸長をどう解釈するのかなぁ、という部分が。

2017-07-12 22:27:39
帆船ハッカ @kotosakikotoko

男鹿半島が湊氏領か男鹿半島本山修造の棟札ではわからない、というのは分かるのだけれども、ならば男鹿半島の増川八幡神社棟札(延徳3年)に『大檀那秋田湊安東二郎宗季』とあるのはどう解釈するのかしら?

2017-07-12 22:57:00
帆船ハッカ @kotosakikotoko

一応増川八幡神社棟札って湊氏が『安東』を名乗っていた証拠の一つにはなるよね? この湊安東二郎宗季なる人物が、湊氏のどこに系譜を繋いでいたのかはわからないけれども。延徳3(1491)年だと男鹿本山の棟札の文明18(1486)年と大永5(1525)年の間に位置する。

2017-07-12 23:08:26
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あー、なるほど。鈴木満先生、天正6・7年に比定されていた蠣崎氏の書状を再び天正18~19年頃に否定し直そうとしてるなこれ。

2017-07-12 23:51:15
帆船ハッカ @kotosakikotoko

10月4日付け蠣崎入道阿陀書状を仮に天正18年に比定し直したとして、問題になるキーワードは『上様御切紙預』『右衛門大夫』『式部太夫』『波岡弓矢』だと思うけれども、この上様や右衛門大夫・式部太夫を誰と考えているのかしら?

2017-07-13 00:01:46
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あ、しまった、『波岡弓矢』は正月17日の書状に出てくる単語だ、間違えた。

2017-07-13 00:05:25
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正17~18年に『波岡弓矢』が発生しているとして、時期的には大浦為信による津軽各地への攻撃と考えられるけど、この文脈だと蠣崎が波岡口で戦う事を表明している事になる。とすると蠣崎と大浦が対立するって事になるんだけど安東との意思とも離れた行動になる可能性あるんだけどちと無理ないか?

2017-07-13 00:13:15
帆船ハッカ @kotosakikotoko

ひとまず『伝承と史実のあいだに-津軽安藤氏・津軽下国氏・桧山下国氏・湊氏の場合-』(鈴木満著)を真面目に読み終えた。この論文は秋田中世史を確実な史料に基づく『史実』と不確実な『伝承』を分けて現在の通説を再点検し、『津軽安藤氏』の歴史を再構成する、というもの。

2017-07-18 22:36:35
帆船ハッカ @kotosakikotoko

肝となるのは、従来定説では鎌倉期に蝦夷の反乱を機に対立した安藤五郎三郎季久が安東又太郎季長に代わって蝦夷沙汰を掌握し、又太郎宗季と改名して後の下国安東氏祖となった、という通説を否定し、季久と宗季は別人であり、宗季を季長の庶流として、二つの津軽安藤氏が並立した、という説を主張する。

2017-07-18 22:45:34
帆船ハッカ @kotosakikotoko

これだけでも結構刺激的だけど、他にも色々な指摘がされててめっさ面白い。ただ鈴木先生がこの論文の前に書かれた『津軽安藤氏研究の一視角』を読まないとちょっと根拠が分からない所があるので、詳しく知りたいならそっちも読んどいた方がいいと思う。

2017-07-18 22:47:53
帆船ハッカ @kotosakikotoko

で、色々引っかかった点としては ・『小鹿島が湊氏領であると論証されているわけではない』とするが、延増川八幡神社棟札(延徳3年)に『大檀那秋田湊安東二郎宗季』とあるのはどう解釈するのか? ・従来下国愛季の側近とされ、蠣崎氏との書状を残した奥村惣右衛門を、仮に木村重茲の家臣と(続

2017-07-18 22:59:27
帆船ハッカ @kotosakikotoko

捉え直し、蠣崎氏の書状を通説の天正6~7年頃から天正18年頃としているが、同じ奥村文書中の宛名不明蠣崎季広書状で『大宝寺殿由利口へ御鉾盾の儀承りに及び候』という記述があるが、天正18年前後に大宝寺が由利へ侵攻した事実は無かった(はず)であるがこれをどう解釈するか(続

2017-07-18 23:05:03
帆船ハッカ @kotosakikotoko

この書状は宛先が不明だけれども、奥村文書中に存在したものであり、蠣崎季広が音信を繋いでいる人物だからして奥村宗(惣)右衛門である可能性が一番高いと考えられるが、違うのであれば誰だと解釈できるのか。

2017-07-18 23:08:19
帆船ハッカ @kotosakikotoko

この2点くらいかなぁ。あ、あとはこれを蠣崎季広の書状を天正18年頃とするのならば、その1点の中に出てくる『右衛門大夫』『式部太夫』を誰だだと解釈するのか、とかも疑問としてあるなぁ(従来は蠣崎正広と下国師季もしくは重季)

2017-07-18 23:10:22
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あと南部オタとしては、三戸南部氏と蠣崎蔵人の乱の位置づけをどうするのか、っていう問題は気になる。15世紀半ばにおいて三戸南部氏が宗家ではなかった、という解釈はありだと思うけど、それ以降の三戸南部氏の状態について、島津忠夫先生・斉藤利男先生による研究をどう消化するのかが問題になる。

2017-07-18 23:15:10
帆船ハッカ @kotosakikotoko

それから蠣崎蔵人の乱については、初出が近世史料だけれども大崎教兼による官途状によって出来事自体は存在したのではないか、と指摘されている事柄で、鈴木先生の編集方針(伝承の排除)としては受け付けがたいだろうけど、伝承だから採用しない、とするなら官途状の解釈も改めなきゃならなくなる。

2017-07-18 23:18:09
帆船ハッカ @kotosakikotoko

書札礼の比較から下国氏の地位が実は低かったのではないか、とする指摘はなるほどなぁ、という感じだなぁ。確か下国氏の地位が周囲の諸氏と比べて低かったのではないか、という指摘は他の方もされていたはず。斉藤利男センセだっけかな?

2017-07-11 23:55:37