「不謹慎」について:あるいは連帯可能性をさぐる。
(2)b)に関しては当然ロールズの格差原理より。なぜ格差原理が適用できるか?といえば、このある不遇な立場にある人達に対する、支援ろいう格差是正措置が行われていると考えられるが、それでも、なおかつ不遇の立場に甘んじざるを得ないことが明らかだからである。
2011-03-18 22:38:37具体例を上げて頂けますか~?たぶんこの場合、場合によってどちらともいえる可能性がありますので~。@bornekiller 自己言及なんてどゆ判断になるんでしょかね?結局、言う人によって不謹慎だったりそじゃなかったりしそう。
2011-03-18 22:42:23@yutakioka 結局、不謹慎てのは自己が下した相対評価である者が言ってもいいがある者が言うのは不謹慎て線引きを用意してるわけで。例えば「腹一杯食いたい」と言った場合、「被災者」の場合とそれ以外、また評価判断する人自身の状況によって無謬に断定され得るてこと。つまりお互いに勘違
2011-03-18 22:43:56ええ、それでその恣意性を理解せずに正義と勘違いしている場合があって、その場合を私は批判するわけです。RT @bornekiller 結局、不謹慎てのは自己が下した相対評価である者が言ってもいいがある者が言うのは不謹慎て線引きを用意してるわけで。
2011-03-18 22:45:37@yutakioka シンプルに思うんだけど不謹慎かどうかてネットじゃなくてリアルで対面してお互いに知っている者同士かある程度想定できる者同士じゃないと使いようがない表現ですからね。顔が見えないでやってる分には魔女狩りみたいなもん、てのは、確かになあ、て思いましたです。
2011-03-18 22:47:13そう思います直接会ってもいないのにその行為の適切性を他者が問うのは限界があると思います。RT @bornekiller シンプルに思うんだけど不謹慎かどうかてネットじゃなくてリアルで対面してお互いに知っている者同士かある程度想定できる者同士じゃないと使いようがない表現ですからね。
2011-03-18 22:50:23ざっくり言うと、並列の関係にあるはずの価値観を上下の関係として捉えてて、その判断基準もおかしくないですかー?てことかな。 RT @yutakioka: 従ってa)の状況=個人の主観的価値観を共通善かのように主張して、相容れない価値を劣った価値として排除し、そのより卓越した価値を押
2011-03-18 22:50:34ええ、要約するとそういうことですね。RT @ryu_jinmaru ざっくり言うと、並列の関係にあるはずの価値観を上下の関係として捉えてて、その判断基準もおかしくないですかー?てことかな。
2011-03-18 22:51:22@yutakioka たぶん人間て自分もそだけど自分が大変なときは周りが相対的に楽に見える傾向があるんでしょね。それも想像力の産物。でも同じ想像力ならもう少し想像力を広げるようにするとお互いに楽なんだろなと思うことは自戒も含めて度々あります。争うことではないもの。
2011-03-18 22:53:13従って(1)の状況=個人の主観的価値観を共通善かのように主張して、相容れない価値を劣った価値として排除し、そのより卓越した価値を押し付けることを正当化するという卓越主義的押し付けに関しては自由・個人主義的立場から許容することは絶対にできないと考える。
2011-03-18 22:53:58私「は」苦しい、でなく、私「も」苦しいという連帯感が必要ですね。RT @bornekiller たぶん人間て自分もそだけど自分が大変なときは周りが相対的に楽に見える傾向があるんでしょね。それも想像力の産物。でも同じ想像力ならもう少し想像力を広げるようにするとお互いに楽なんだろなと
2011-03-18 22:56:34@yutakioka 連帯は怖いっすよ。「皆苦しい」→「欲しがりません!勝つまでは」て展開になりそで。(この構造誰か少数が大もうけする構造に似てていろんな意味で怖いし警戒すべき)
2011-03-18 22:58:36私「は」苦しいという発想から私「も」苦しいと、という風に他者も同様な状態であり得るということをほんの少し慮ることができるのであれば、不謹慎と言い合う、価値否定自粛競争のような愚は免れ得ることは可能であると考える。他者の価値を尊重しあいながらも自己実現の道も同時に探ることが肝要。
2011-03-18 23:00:48当然歯止めは考えてますよ。連帯の強制は避け、自発的にそうなればいいと期待することです。RT @bornekiller 連帯は怖いっすよ。「皆苦しい」→「欲しがりません!勝つまでは」て展開になりそで。(この構造誰か少数が大もうけする構造に似てていろんな意味で怖いし警戒すべき)
2011-03-18 23:02:42@yutakioka 連帯というか例えば具体的には電車で列に並んで乗車の順番を待っている列に横入りして来るのは確かに不謹慎とか。その場合でも急病人だとか事情を説明して「それなら」となることもあるとか。とりあえず何が不謹慎だと感じたか説明して相手の事情も聞くのが肝要すかね。
2011-03-18 23:04:39なぜなら、利他と利己は断絶されたものではなくて、連続的なものであるから。つまり結局は「利己的であるためには利他的でなければならない」(ドーキンス)と「他者を愛せるためには自己を愛せなければならない」(アリストテレス)両者を合わせると、利他と利己の境界は消滅することがわかる。
2011-03-18 23:05:37ええ、そうですね。その手続きが大切ですね。RT @bornekiller とりあえず何が不謹慎だと感じたか説明して相手の事情も聞くのが肝要すかね。
2011-03-18 23:06:21「利己的であるために利他的でなければならない」というテーゼの正当性はウィルスを考慮すればわかる。つまり寄生主を殺してしまうほどの強い毒性を発生させるウィルスは寄生主を殺して自分も死んでしまうが適度の毒性で寄生主が死なない程度であればそのウィルスは長期間生き残ることができる。
2011-03-18 23:09:13@yutakioka お互いに我慢を強いるときはお互いに納得できる(共通認識のある)理由てのが必要すね。それでも「家族が危篤」と言われてもそれが本当か嘘かわからない。その即座に証明できない事情を汲み入れるか疑うか、こゆとき規範の蓄積が生きてくるんでしょね。詐欺も同じ。
2011-03-18 23:11:39@yutakioka ツイート参考になります!ありがとうございます! 不謹慎問題についてですが、ごく一部の問題(死者一万人を祝うコミュニティなど)をのぞいては、たいした事がないように思えます。 また、そうやって人を非難する事は、誰においても得が無いように思えますね~。
2011-03-18 23:11:50アリストテレスのテーゼはどうかといえばこれも明らか。感情は、情動解釈であるわけだから、ある種の情動解釈の経験がなければ、他者の情動を”感じた”場合においても、その情動を解釈・判断する為のツール、つまり、自己の同様な情動解釈の経験がなければ不可能である、ということから明らか。
2011-03-18 23:12:48すなわちこの二点を持って利他・利己は分裂・独立関係」ではなくて相補的で相互依存的であると考える。ただそれは原理的な話であってそれを常に人間が実行できる保証はない。それでも目指すべきと私は考える、社会的感謝行動と私が呼ぶ行為はその一つの可能性と考える。
2011-03-18 23:15:16そうですね~RT @koudaixs ツイート参考になります!ありがとうございます!不謹慎問題についてですが、ごく一部の問題(死者一万人を祝うコミュニティなど)をのぞいては、たいした事がないように思えます。また、そうやって人を非難する事は、誰においても得が無いように思えますね~。
2011-03-18 23:16:27