「不謹慎」について:あるいは連帯可能性をさぐる。
それは強すぎるウィルスと同じ運命をたどり早死にするので結局自己を愛する=利己的であることの目標を達成することができないことになるので理論的には自己を愛することはできないとなります。つまり自己しか愛せない人は存在しない。RT @HRHSKYM 自己しか愛せない人がいるようです。
2011-03-18 23:44:54自己の存在を認め其処から他者の存在を想像するしか無いとすれば、その想像力を担保するものこそが愛だとわかる。RT @yutakioka: ドーキンスとアリストテレス 両者を合わせると、利他と利己の境界は消滅することがわかる。
2011-03-19 00:04:45例えば、ミツバチは働き蜂が、攻撃によって毒針をさす。張りが抜けない。そのミツバチは死ぬ。そのことによって攻撃するターゲットを示す。これは利他的なのだろうかRT @yutakioka: つまり自己しか愛せない人は存在しない。RT @HRHSKYM 自己しか愛せない人がいるようです。
2011-03-19 00:07:57@yutakioka 人によっては、動機が「利他的」か「利己的」のどちらを出発点としてるのかを問いますね。ベンサムの功利主義ではどっちでもいいことになりますが。
2011-03-19 00:12:47@yutakioka 生殖に直接関わらない働き蜂の、そういう行為は遺伝的にプログラムされた行動パターンだとすればそれを実行することは、その規範から離れた行為ではなくそれによく則った行為だと、そうすればそれは利己的でもありうるのか。。。
2011-03-19 00:13:48ええ、そういうことですね~。RT @sturok 自己の存在を認め其処から他者の存在を想像するしか無いとすれば、その想像力を担保するものこそが愛だとわかる。
2011-03-19 00:20:41いえ、私の立場は利他・利己という区別ができないということです。利他と利己は究極的には同値です。RT @yujinyoshimura 人によっては、動機が「利他的」か「利己的」のどちらを出発点としてるのかを問いますね。ベンサムの功利主義ではどっちでもいいことになりますが。
2011-03-19 00:22:59ええ、私はそう考えています。RT @sturok 生殖に直接関わらない働き蜂の、そういう行為は遺伝的にプログラムされた行動パターンだとすればそれを実行することは、その規範から離れた行為ではなくそれによく則った行為だと、そうすればそれは利己的でもありうるのか。
2011-03-19 00:24:37自己愛型人間(自己愛性人格障害者)が事実として存在していることを考えると、その理論にはどこかに間違いがあると考えなければならない。@yutakioka
2011-03-19 00:25:28@yutakioka 究極の利己は利他と同義だと思いますが、一般的に言われる利己とは利他性の欠ける非合理的な行為のことだと理解してます。長期的な視野を持てば利他にならざるを得ませんが、短絡的に考えれば利他を無視できますから。
2011-03-19 00:26:27いえ、それは、自己愛性型人間というのは結局真の意味で利己的ではないのです、利己的を目指すが故に自己を殺すウイルスと同じです。RT @HRHSKYM 自己愛型人間(自己愛性人格障害者)が事実として存在していることを考えると、その理論にはどこかに間違いがあると考えなければならない
2011-03-19 00:29:26ええ、短絡的に考えれば、ですね。(笑)RT @yujinyoshimura 究極の利己は利他と同義だと思いますが、一般的に言われる利己とは利他性の欠ける非合理的な行為のことだと理解してます。長期的な視野を持てば利他にならざるを得ませんが、短絡的に考えれば利他を無視できますから。
2011-03-19 00:30:06生物のおける利己的行動というのは自己保存のためのあるいは遺伝子を残す為の行動を指します。それで、愛などと言っている行為も結局はその行動のプラトニックな解釈にすぎませんですから、究極的・長期的にはそういうことです。RT @HRHSKYM 結果的に利を達成できなければ、愛ではないと?
2011-03-19 00:35:57