遊女・からゆきが背負ったもの
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「明治政府は、女郎買いは“市民権”として認めても、若者同士の相思相愛(恋愛)は犯罪として認めなかった。そこでプロレタリアの息子は年三十を越しても嫁をもらえない境遇が多い。また反面に、プロレタリアの娘が廓に売られることは認めていたのである」[要出典]
2017-08-10 10:07:24恋愛は明治期に輸入された - Togetterまとめ togetter.com/li/1132437 定義の問題であろうが、当初の学生さんの訴えである「失恋を嘆く」という発想は古代の歌にもあるんだから、新しい考え方ってことはないと思うのだ。
2017-08-10 10:21:13明治五年の「新聞雑誌」に外国人の弁として「客商売の家には、金精明神と称え、大なる陰茎を神棚に上げ、燈明を点し榊などを具し、之を祭れり。無礼と云ひ失体と云ひ実に無恥の風、正視するに堪ざるなり」とある。不平等条約を改正したい明治政府としては、外国からの視線に過敏にならざるを得ず、
2017-08-10 10:27:36こうした風紀の粛正に躍起になっていた。路傍の金精さんの撤去を命じ、往来で裸体になること、男女混浴、春画、性具、刺青などを禁じる。
2017-08-10 10:29:56当時の欧米でも売春は隠れてやるものであって、日本の遊廓のように堂々と営業していることは奇異に映ったようで、これも批判の対象になっている。しかしこればかりはなかなか排除できなかったようで、廃娼運動の先鋒である英国からインタビューを受けた伊藤博文は、遊廓の廃止を否定している。
2017-08-10 10:35:50「之(遊郭)を不徳の制度と云ふは英国あたりの気狂いじみたものの云ふ言で、これぞ寧ろ不徳を監視し制度し且つ支配するものと云わねばならぬ」禁止しても地下に潜り無造作に広がるくらいなら公的に管理した方がマシだと言い切ったのである。今なら二回くらい内閣が吹っ飛ぶかもしれん。
2017-08-10 10:39:34「彼等(遊女)の中には貧苦に迫る両親を扶けんため身を売り孝を為さんといふ高尚なる目的を懐けるものもある。故に苦役中苦行を積むものは再び社会に出ることが出来るのである」貧困対策は政府の役目ということを棚に上げ、美談に仕立て精神論で押しきる手法は現代にも伝わるものである。
2017-08-10 10:42:59これは諸外国に非常に評判が悪かったようで(当たり前だ)、その年にロシアで皇太子の戴冠式が行われたのだが、現地在住の日本人が官庁へ慶賀の意を伝えたところ、「不潔なる臣民の祝意を受ける余地なし」と却下されたらしい。当時のロシアには日本の娼婦が出稼ぎに来ており、これも色々あった模様。
2017-08-10 11:04:45明治33年には毎日新聞が「我が愚かなる政府の大臣は自ら芸妓の如き売婬婦を買ふ所の馬鹿大臣なるのみならず、其の表面に於ても売婬を公評して耻ぢざる鉄面大臣なり、破廉恥大臣なり」と強い調子で批判した。こうした論調がやがて国内にも広がり「国辱」論から改めて娼妓廃絶の機運が高まった。
2017-08-10 11:09:37(この著者の視点がそうというだけかもしれないが、あくまで「国辱」論から廃娼運動が起きているのであって、そこで奴隷労働に従事させられている婦女子の救済ではないというところは少し気になる。要確認)
2017-08-10 11:19:47※読み返しても、奴隷扱いからの解放、人身売買の禁止(ついでに性病駆逐)というところから始まったはずの廃娼運動が、いつの間にか国辱とか貞淑とかいう話にすり替わっている。
その後も「売婬国」など強い調子でマスコミが政府批判を繰り返す。遊郭や私娼街などの様子を事細かに報道して煽るわけだが、「浮浪児1945-」でも上野が犯罪の魔窟と煽られた結果余計にゴロツキが集まってきたという指摘があり、功罪は要検討。
2017-08-10 11:26:23女衒
(娘を買い付けてきた女衒と遊廓の楼主との買い取り価格を巡る駆け引きの描写あり。この手の場所につれてこられた娘の境遇というのを、一般の人々はどれくらい知っていたのか。親は知っていて売り渡せるものだろうか。女給などまともな仕事と騙された口も少なくなかっただろうが)
2017-08-10 11:41:59『吉原花魁日記』 途中で読むのやめようと思ったけどグイグイ読んじゃった - なすこ置き場 nasukob.hatenablog.com/entry/20130702… 買われた娘の境遇についてはこれも詳しい。買われた経緯から逃げ出すところまでの日々が描かれる。表紙はこうの史代さんだろうか?
2017-08-10 11:47:00いわゆる有識者による公娼制の擁護
廃娼運動の歴史 | 国立国会図書館 rnavi.ndl.go.jp/kaleido/tmp/84… (PDF) 福沢諭吉「娼婦は日本では、当たり前のことだ。しかし……日本の有り様を見られると何かと世界で批判の的となるに違いないから、娼婦達は、西洋人の目のつかないところへ集中させるべき」
2017-08-10 13:06:44明治の吉原が江戸より改善したのがひとつだけあって、病気になったら治療を受けられる(可能性がある)ということだった。それが警視庁吉原病院で、院長は所轄の警察署長が兼任した。彼女たちはここでのみ忘れかけていた「戸籍上の本名」で呼ばれるのである。源氏名でなく。
2017-08-10 13:24:34娼妓取締法に、娼妓になるには家計が苦しいものでなければならないという項目がある。そのため人買いは貧困層を求めて東北などの農家に出向くのである。戸籍上「華族」「士族」の者も娼婦にはできなかった。だが実際はあってないような規則であった。
2017-08-10 13:36:57新潟地方は地主の搾取がひどく貧しい農家が多いために売られる娘も多かった。色白美人が多く、また過酷な境遇にあるためか我慢強くて駆け落ちや逃亡が少なく、高く売れたらしい。そして凶作の年は安く買い叩けるので女郎のかきいれ時となる。
2017-08-10 13:43:23(「女性が秘所を見せることを極端に恥じた日本」であるため医師が梅毒のことを調べる機会がなかったとあるが、別の本では下着もないのに大股開きで座っていて目のやり場に困ることもあったらしく、これも地域的なものかなあ。医師には見せなかったということだろうか)
2017-08-10 13:56:20