「チンギス・カン」と「チンギス・ハーン」って、何が違うの?

「チンギス・カン」「チンギス・ハーン」「チンギス・カーン」時代によって教科書でも記述の違うモンゴル帝国の初代皇帝の呼称について
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きんだいち @kanedaichi1

@mongkeke_tarikh ということは当然フラグやフビライはグユクを認めてないと。

2017-10-06 22:05:20
もんけ(歴史)مونککاکا _تاريخ ꡏꡡꡃ ꡁꡁ ꡈ ꡝ ꡘꡨꡣ @mongkeke_tarikh

@kanedaichi1 そこら辺が非常に難しいところです。集史グユク・カン紀ではドレゲネ皇后自身については事々痛罵してる感じですが、グユク自身については「その不行状を非難する」という姿勢は余り感じられません。ジョチ家トルイ家の王族同士でも、ドレゲネは別にしてグユク自身の評価が分かれていた可能性があります

2017-10-07 01:15:15
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@kanedaichi1 オゴデイの崩御からグユクの即位に至る経緯は世界征服者史と特に集史グユク・カン紀に詳述されており、ドーソンのモンゴル帝国史(東洋文庫版の第2巻)で両書の記述を要約する形で縷々述べられていますので、ご興味がお有りであればそちらを直接参照されるのをお勧めしますが、搔い摘んで説明しますと

2017-10-06 21:50:46
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@kanedaichi1 集史オゴデイ・カアン紀によれば、オゴデイには男児が7人いましたが、グユクはその長男でした。元々オゴデイにはボラカチンという第1皇后がいましたが、彼女はオゴダイ存命中に逝去したらしく、オゴデイ逝去後に宮廷を主催したのはドレゲネ皇后という人物でした。グユクは彼女の長男でもありました。

2017-10-06 22:03:32
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@kanedaichi1 またオゴデイ・カアン紀によればオゴデイは生前自らの後継者を三男のクチュにしょうと考えていたそうですが、クチュはオゴデイ時代の南宋遠征中に陣没してしまい、代わりにクチュの長男シレムンを後継者に考えていたのだそうです。ところが…

2017-10-06 22:11:07
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@kanedaichi1 1241年にオゴデイが崩御した時、宮廷を取り仕切っていたドレゲネ皇后は、次代のモンゴル皇帝としてオゴデイの孫シレムンではなく長男グユクを推すと表明して各王家を説得して廻ったのだそうです。グユクは有名なジョチ家のバトゥ率いる対欧州遠征軍に参加していましたが、

2017-10-06 22:16:51
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@kanedaichi1 遠征の途中でジョチ家の王族達とチャガタイ家・オゴデイ家の王族同士で反目する事件があったようで、グユクはその釈明のために父オゴデイから召還命令が出されモンゴル本土に帰還する事になりました。その道中でオゴデイは崩御してしまいます。

2017-10-06 22:20:57
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@kanedaichi1 グユクはこういった非常に微妙な立場のうえに生母ドレゲネ皇后の強引な説得によって即位する事になるのですが、グユクが即位したのはオゴデイ没後6年も経った1246年でした。結局説得はされたものの、それだけジョチ家やトルイ家、恐らくオゴデイ家の王族達も彼女のやり方に反発してたのでしょう

2017-10-06 22:27:18
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@kanedaichi1 ドレゲネ皇后は我が子グユクが即位した直後に病没していますが、グユクは本人の意思の如何に関わらず「帝国の殆どの王族達から(本心では)望まれずに即位する」という針のむしろのような状態で治世を始めねばなりませんでした。「皇帝グユク」はこの「極端な支配正統性の弱さ」を考慮せねばなりません

2017-10-06 22:34:27
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@kanedaichi1 皇后ドレゲネはグユク即位の当たって様々な根回しや牽制を行っているのですが、オゴデイ崩御後に首都カラコルムにやって来たチンギスの末弟テムゲ・オッチギンをまず呼ばれもしないのに何故来たのかと言って追い返し、トルイの寡婦ソルコクタイには皇帝選出のクリルタイに協力するよう説得したそうです

2017-10-06 22:39:16
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@kanedaichi1 モンゴル帝国はチンギス時代からの政策で、征服した地域を、華北方面、旧ホラズムシャー朝と旧西遼にあたる中央アジア方面、オゴデイ時代に整備が進んだイラン高原以西の3つの大まかな行政区分として皇帝直属の監督下に置き、そこで上がった収益を各王家や諸侯家に分配していたようです。

2017-10-06 22:46:35
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@kanedaichi1 元史ではモンケ時代に、華北方面は1)「燕京等處行尚書省」、中央アジア方面は2)「別失八里處行尚書省」、アムダリヤ川を渡ったイラン高原以西の地域は3)「阿母河處行尚書省」と漢語で表現されました。

2017-10-06 22:55:15
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@kanedaichi1 オゴデイ末期まで1)と帝国全体を管轄していたのはチンギス以来の筆頭書記局長だった大書記官チンカイで、2)は同じくホラズム系と思しきムスリム系の大書記官マムフード・ヤラワチ、そして3)はオゴデイの側近の一人だったアルグン・ノヤンでした。

2017-10-06 22:58:20
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@kanedaichi1 ドレゲネはチンカイを罷免しアブドゥッラフマーンというムスリム官僚を代わりに据え、中央アジアのヤワラチはバトゥに保護を求めて中央宮廷から距離を置きました。イラン方面では専任の総督クルグズが現地駐屯のモンゴル王侯や在来のイラン系王侯や官僚達と衝突を繰り返していたため、

2017-10-06 23:12:52
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@kanedaichi1 オゴデイの側近であったアルグン・ノヤンがクルグズの補佐役としてイランに派遣されていましたが、結局この混乱は終息せず、クルグズには逮捕命令が出されてしまいました。間が悪い事にその混乱時期にオゴデイが崩御してしまい、皇后ドレゲネはオゴデイの遺勅であるとしてクルグズを逮捕し、

2017-10-06 23:17:00
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@kanedaichi1 代わりにイラン方面の総督にアルグンを補任する事にしました。この時期、イラン方面のモンゴル駐留軍の司令官だったバイジュがルーム・セルジューク朝軍を打ち破って臣従させており、アルグンは不在のモンゴル皇帝の名代としてイラン高原以西の在地諸勢力の徴税権と監督権を担う事になります。

2017-10-06 23:24:22
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@kanedaichi1 何故アルグン等の話しを長々したのかと言うと、グユクが即位した時、アルグン・ノヤンはルーム・セルジューク朝、アルメニア、グルジア、その他の帝国に臣従する現地諸王侯や、アッバース朝、ニザール派、西欧等の外交使節達を引き連れてグユク即位のクリルタイに出席しているからです。

2017-10-06 23:28:38
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@kanedaichi1 グユク即位までのトルイ家の動向はやや不明な点もありますが、ジョチ家はかなり反発していたようでした。しかし、結局はドレゲネの説得に渋々従ってクリルタイの開催に同意したようです。ただし、ジョチ家当主のバトゥは体調不良を理由にクリルタイに出席しませんでした。

2017-10-06 23:32:34
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@kanedaichi1 ただ、ジョチ家当主バトゥが欠席とはいえ、これも「ただし」がつく感じで、バトゥは自らの名代を多数クリルテイに出席させています。集史にはジョチの男子を14人列記していますが、集史グユク・カン紀に述べられている列席のジョチ家王族はうち6名に登ります。

2017-10-06 23:43:46
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@kanedaichi1 即ち、バトゥの異母兄でジョチの長男オルダ、三男ベルケ、四男ベルケチェル、五男シバン、六男タングト、十三男トカ・テムルの6名。 特にオルダはジョチ家所領(ジョチ・ウルス)の東方領の責任者で、実質当主であるバトゥと二人三脚的にウルスを共同統治している感じでした。

2017-10-06 23:47:12
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@kanedaichi1 ジョチ・ウルス研究で有名な赤坂恒明先生が述べられているところではありますが、ジョチ・ウルスは東部の左翼ウルス、中央部の大中軍、西部の右翼ウルスの三翼構造だったそうで、オルダが東部左翼ウルス、バトゥは中央(と西部)、タングトが西部の右翼ウルスを担当していたそうです。

2017-10-06 23:56:25
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@kanedaichi1 ジョチ家の兄弟達はオルダとバトゥのふたりの下についてそれぞれついていたそうでして、オルダの下には十二男ウドゥル、十三男トカテムル、十四男セングムがついていたそうで、他の兄弟達はバトゥの監督かにあったのだそうです。タングトはバトゥのもとで右翼ウルスを監督していたらしく、

2017-10-07 00:02:02
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@kanedaichi1 全体的に見ると、ジョチ家は当主であるバトゥが出席してないだけで、彼の分身とも言える異母兄オルダが来れるだけの他の兄弟達を引き連れた「縮小版ジョチ・ウルス」でグユクの即位式に列席した感じでした。

2017-10-07 00:05:52
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@kanedaichi1 グユクの即位式は、アルグン・ノヤンが連れて来た諸侯や使節達も含めて基本的にモンゴル帝国の有力者がほぼ勢揃いした感じのクリルタイだったのですが、「肝心要のジョチ家当主バトゥのみが欠いている」非常に剣呑なものだったと言えるのです。

2017-10-07 00:09:21
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@kanedaichi1 グユクの即位式を剣呑なものにしている要素は実はもう一つありまして、それはこのクリルタイで、グユクは列席したモンゴル王侯達に「誓約書(モチェルゲ)」の提出を求めている事です。

2017-10-07 00:14:02