編集部イチオシ

大政奉還とそれにまつわる史跡をまとめてみた

幕末の1867年11月9日(慶応3年10月14日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が行った「大政奉還」をまとめてみました。今年は大政奉還150周年でもあります。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

一見すると白旗を挙げたかにも思われる大政奉還ですが、実は徳川家が生き延びる最後の手段だったともいえます。 薩摩・長州・芸州の3藩は再び出兵計画を練り直し、土佐藩ら公議政体派をも巻き込んで1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古へと向かっていくことになります。

2017-10-16 20:36:13
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大政奉還の後、朝廷内では投げ出された権力を誰が握るかを巡り暗闘が繰り広げられます。 薩長を中心とする武力討幕派と徳川慶喜を新体制に引き入れた合議体制を目指す一派が対立。どちらが主導権を握っても不思議ではない緊張状態が続いていました。 そんな中で武力討幕派は強引な手に出ます。 pic.twitter.com/CguX3S01u9

2017-10-16 23:38:01
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1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」です。 それは新体制の始まりを告げるもので、慶喜の将軍職辞職を勅許・京都守護所職と京都所司代の廃止・江戸幕府の廃止・摂政関白の廃止といった内容で、あからさまに慶喜を排除した新体制の宣言だったのです。

2017-10-16 23:44:17
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京都所司代で会津藩主・松平容保と京都所司代で桑名藩主・松平定敬は慶喜を支える両輪で「一会桑」とも称されるチームでもありました。 王政復古の大号令で京都守護職・京都所司代が廃止された為、慶喜は両翼をもがれたような状態になったのです。 pic.twitter.com/P7ESXensIf

2017-10-16 23:50:56
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また、摂政の二条斉敬は慶喜の従兄弟で幕府擁護派でした。摂政・関白を廃止すれば二条斉敬も力を奪われてしまいます。 王政復古の大号令は慶喜擁護派を排除し、慶喜を徹底的に孤立させるものでした。この動きに関しては二条城の慶喜も松平容保も事前に察知しており、京都には緊張が走っていました。

2017-10-16 23:56:22
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武力討幕派は慶喜らの軍事力を警戒し、この日の早朝には薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の軍が御所の周囲を固め、徳川に味方する勢力を近づけないようにします。 武力討幕派は御所を占拠した上で、王政復古の大号令というクーデターに踏み切ったのです。 pic.twitter.com/D7hGKejsp5

2017-10-17 00:07:23
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1月3日当日は、王政復古の大号令を阻止しようとする徳川方と武力討幕派の軍事衝突が起きてもおかしくなかったのですが、徳川慶喜が自重した為に軍事戦闘が起きなかったと伝わります。 王政復古の大号令の実現を目指して暗躍したのが岩倉具視です。

2017-10-17 20:49:24
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岩倉は孝明天皇が在位していた時に親幕派と疑われて蟄居処分を命じられていましたが、大号令の前に蟄居を解かれ自由な身の上になっていました。 岩倉は薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の藩の重臣を自宅に招いて御所防衛の協力を求めます。 pic.twitter.com/yK8zi2zzyp

2017-10-17 21:08:49
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岩倉は明治天皇の外祖父・中山忠能の説得にも成功します。武力討幕に懐疑的だった中山の説得に成功した事で王政復古の大号令は発動出来たのです。 薩長を中心とする武力討幕派は、王政復古の大号令によって徳川慶喜に打撃を与え更に同日夜の「小御所会議」で追い打ちをかけました。

2017-10-17 21:19:46
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1868年(慶応3年)1月3日 王政復古の大号令の当日午後6時頃から、京都御所内の小御所で会議が開かれます。参加したのは明治天皇のほか、三職・議定・参与の地位を得た有力諸侯や公家です。 議定には島津忠義・徳川慶勝・松平春嶽・山内豊信が、参与に岩倉具視が居ました。 pic.twitter.com/EzZ1V4iYNf

2017-10-17 21:44:36
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この会議に慶喜は出席していません。小御所会議最大の議題は慶喜の処遇についてでした。武力討幕派は400万石と言われた徳川家領地の召し上げに加えて、全ての官職を辞めさせる「辞官納地」を主張します。 武力討幕派にとって、徳川勢力が有る限り思い通りの新体制を築けないからです。

2017-10-17 22:34:21
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武力討幕派は徳川勢力を徹底的に潰すと共に、徳川の富を新政府の財源に充てようと目論んでいたのです。 一方、武力討幕派に反対する一派は「公儀政体派」と呼ばれ、慶喜を擁護し一定の地位と名誉の保証を考えており、その先鋒に立ったのが土佐藩の山内豊信(容堂)でした。 pic.twitter.com/PVRuJ7ohSN

2017-10-17 22:50:22
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容堂は慶喜の処遇の場に肝心の慶喜が呼ばれていない事に言及し、武力討幕派の岩倉らと激論を戦わせます。 会議の流れが容堂の主張に引きずられかねない情勢になっていた時、容堂は勢い余って失言してしまいます。

2017-10-18 21:15:27
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容堂は 「この会議に今までの功績がある徳川慶喜を出席させず、意見を述べる機会を与えないのは陰険である。数人の公家が幼い天皇を擁して権力を盗もうとしているだけではないか」 と失言してしまったのです。 pic.twitter.com/zleSFo23r0

2017-10-18 21:26:25
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これに対し岩倉は「帝は不世出の英主であり、今日の事は全て天皇のご決断である。無礼者、それを幼い天皇とは妄言である」と論駁した為、容堂は直ちに失言を謝罪したというものです。 ただ、この容堂と岩倉のやり取りは後に作られた「挿話」であるという説もあるようです。

2017-10-18 21:29:10
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松平春嶽が容堂に助け船を出し慶喜の出席を重ねて求めますが、岩倉や大久保利通は徳川家の罪状を並べてこれを断然拒否します。 大久保は慶喜が辞官納地に応じる事が前提であり、そうでない場合は免官削地を行いその罪を天下に晒すべきだと主張します。 pic.twitter.com/0afHU3tFgi

2017-10-18 21:37:35
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土佐藩の後藤象二郎も公明正大な措置が肝心で、この会議は陰険であると容堂の論を支持。今度は大久保・後藤の間で激論が交わされます。 しかし、徳川慶勝・松平春嶽も容堂を支援し始め、岩倉・大久保案は島津茂久が賛同したのみで会議の趨勢は慶喜許容論に傾きつつありました。

2017-10-18 23:31:20
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しかし休憩中、岩倉は会議に列席していた広島藩12代藩主浅野茂勲に対し「この会議での妥協はあり得ず、いざという時は非常手段を取らざるを得ない」との覚悟の程を語り、茂勲の賛同を得ます。 その知らせを広島藩士・辻将曹が後藤に伝え、妥協を促します。 pic.twitter.com/LskfQx151L

2017-10-18 23:47:09
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後藤もここに至っては無駄な抵抗だと悟り、山内容堂を説得。結局、春嶽・容堂共に決議に従わざるを得なくなったのです。 こうして夜半まで続いた小御所会議は決着し、松平春嶽・徳川慶勝が慶喜へ辞官納地の決定を伝え、慶喜が自発的にこれを申し入れるという形式を取る事が決定されました。

2017-10-18 23:53:01
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これに対して慶喜は無抵抗でした。新政府の決定を明治天皇のご意志とみなし尊重したのです。当時、慶喜が居た二条城には幕府の兵や京都守護職・松平容保の会津兵や京都所司代・松平定敬の桑名兵が控えていました。 慶喜がその気になれば武力で小御所会議を粉砕する事は容易だったはずです。 pic.twitter.com/Ecqhwwues1

2017-10-19 00:10:24
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1868年(慶応3年)1月7日 徳川慶喜は二条城を捨て、大坂城に退去します。 1月10日 慶喜は大坂でイギリス・フランスなど六ヶ国の代表と会見し、日本の外交権が今なお誰にあるのかを見せつけます。 この会見には薩摩寄りのイギリス公使・パークスも出席していました。

2017-10-20 20:30:54
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一方、京都には日本各地から大名が集まり始めていましたが、彼らは新政府の慶喜に対する処遇に不満を覚えていました。 「辞官納地」を慶喜のみに押し付ける事に異を唱え、雄藩を含む諸大名で負担を分け合うべきだという声が上がり始めたのです。 雄藩とは江戸時代に勢力の強かった藩の事です。 pic.twitter.com/nYEnknfiAz

2017-10-20 21:34:59
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このまま時間が経過すれば、慶喜を擁護する声はさらに高まり慶喜が復権する可能性も有りました。 何より慶喜自身がそう望んでいたと思われますが、武力討幕派の西郷隆盛はここで徳川勢力と本格的に一戦交える方向に舵を取り始めました。 西郷が選んだ手段は江戸で徳川勢力を挑発する事でした。

2017-10-20 21:52:50
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西郷は薩摩藩士・益満休之助に江戸に騒擾を起こせと指令。騒擾とは集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱す事です。 益満は尊皇攘夷派志士の相楽総三を引き込み、江戸に向かいました。 相楽は江戸で浪士を集め、浪士一派は江戸や関東各地で放火や強盗などのテロを仕掛けたのです。 pic.twitter.com/YJLFcKqzSM

2017-10-20 22:55:34
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この時、有力な幕閣は京都に居たので江戸は不在でした。 江戸での薩摩の狼藉に対し立ち向かったのが、江戸の治安を任されていた庄内藩(現:山形県鶴岡市に在った藩)とその傘下の新徴組でした。 1868年(慶応3年)1月19日 彼等は江戸薩摩藩邸を砲撃し、焼き払ったのです。 pic.twitter.com/1Nemsc33AM

2017-10-20 23:21:26
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