「#ふぁぼされる度に好きな歴史人物の話をする」タグによる天智天皇と大友皇子と持統天皇語り※じわじわ増えます

乙巳の変から始まる大化の改新で有名な中大兄皇子こと天智天皇の、律令国家へ向けての体制構築と、それを継ぐはずだった大友皇子の人となり、そしていろいろな意味で天智天皇の遺志を引き継ぐ持統天皇を語っておられましたので、まとめてみました。
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Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

史料の性質上、『懐風藻』の評伝の彼の為人はだいぶ差し引いてみなくてはいけないが、それでも20代前半で史上初の太政大臣に任命されているということは、彼がやはり優れた人物であったことは間違いない。→

2017-12-12 11:22:12
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

671年、天智天皇は新たな中央官制の中枢となる太政官制を施行した。この時、大友皇子は太政官の長官である太政大臣に任命された。大宝令・養老令の太政大臣は天皇の師範であるために「則闕の官」とされたが、天智朝で設置された太政大臣は天皇の詔勅を奉宣する最高執政官であった。→

2017-12-12 11:30:14
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

このような重要な職を大友皇子に任せるということは、天智天皇が彼を後継者として嘱望していたとみるのが道理であろう。律令国家的中央集権体制の構築を進める天智天皇は、隋唐に倣い、王位の父子直系継承・皇太子制の導入を視野に入れていたであろう。→

2017-12-12 11:40:34
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

それまでの王位継承資格には、大王としての執政能力が求められ、その指標として年齢が重視された。故に、兄弟間での王位継承が頻繁に起きていた。また、群臣によって大王が推戴されるため、その後背氏族の勢力も大きな要素であった。従って、生母の出自も問われていた。→

2017-12-12 11:45:22
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

天智天皇が目指したであろう皇太子制の導入は、大王(天皇)が後継者を指名すること、王位の父子直系継承が約束されるということにおいて画期的であり、それまでの王位継承のあり方に変更を迫るものであった。→

2017-12-12 11:51:34
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

これは当然、従来の王位継承のあり方を良しとする支配者層からは反発を買うであろう。だが、天智天皇としては自身の在位中に律令国家体制を完成させ、そのカリスマ性で皇太子制の導入と確立を図ろうとしていたのではないか。→

2017-12-12 11:59:44
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

大友皇子は天智天皇の第一皇子であるが、生母は地方豪族伊賀氏が献上した采女であった。生母の身分はそれまでの王位継承者に比べると格段に低い。だが、大友皇子の才能を評価する天智天皇は、自身が斉明朝で母の女帝を補佐した経験を踏まえて、大友皇子を最高執政官の地位に据えた。→

2017-12-12 12:06:37
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

天智天皇の構想としては、大友皇子が天皇と共に律令国家体制を完成させることによってそのカリスマを高め、皇太子制の導入を支配者層に認めさせる。そして、大友皇子を史上初の皇太子として冊立するというものであったのではないか。→

2017-12-12 12:09:48
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

だが、天智天皇は太政官制を導入した671年の12月3日、律令国家的中央集権体制の構築に着手したばかりで崩御してしまう。天智天皇の構想は崩れ、大友皇子は悲劇的な末路をたどってしまう。→

2017-12-12 12:14:36
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

天智天皇死後、近江朝廷の主となった大友皇子は、天智天皇の葬送・陵墓建設や外交問題を処理しつつ、王位継承の最大のライバルとなる大海人皇子との決戦を目論んでいた。無論、大友皇子の台頭によって王位継承候補の最有力者としての地位を脅かされた大海人皇子も大友皇子を倒す機会を狙っていた。→

2017-12-12 12:24:25
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

来日していた唐使郭務悰が帰国し、朝鮮半島の唐軍や新羅が倭国に侵攻する危機が回避されると、ついに大友皇子と大海人皇子は決戦に踏み切る。壬申の乱の勃発である。→

2017-12-12 12:30:57
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

大友皇子は、天智天皇が構築を進めていた中央集権国家の支配体制に基づいて兵員を導入しようとした。しかし、中央集権体制は未確立であり、思うように兵員が導入できない。地方官のなかには大海人皇子に味方する者も多かった。→

2017-12-12 12:38:26
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

大友皇子の台頭によって王位継承のあり方が変更されるということは、支配者層のあり方も変更されるということだ。近江朝廷の中枢から外された中央豪族の名門大伴氏のみならず、地方長官に任命された王族や地方豪族も、大友皇子に不満を持つ者が多かったのである。→

2017-12-12 12:43:51
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

中央集権体制の未確立と大友皇子に対する不満を看破した大海人皇子は、不破を押さえて近江朝廷と東国との連携を遮断する一方、自身の領地のある美濃国や隣国尾張などから兵力を動員し、地方豪族との連携を図って、近江大津宮に攻め込んだ。→

2017-12-12 12:53:43
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

近江朝廷側では、決戦を前に将軍山部王が御史大夫(大納言)蘇我果安・巨勢比等によって殺害され、果安も戦線を離脱して自害するといった内紛が起き、ついに軍勢は瓦解する。近江大津宮は炎上し、大友皇子は物部麻呂ら僅かばかりの舎人を連れて、山前で一人自縊して果てる。時に25歳。→

2017-12-12 13:59:53
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

大友皇子は父の天智天皇によって将来を嘱望され、自身もその才を恃むところが大きかっただろう。しかし、父との思いがけない早い別れが、彼の人生を大きく狂わせた。天智天皇による律令国家体制の完成が実現し、カリスマ性を高めた天皇が皇太子制の導入に成功していたとしたら。→

2017-12-12 14:07:12
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

律令国家の完成を見ないまま死の床に就き、自身の構想に大きな修正を迫られた天智天皇は、大友皇子の行く末も見据えて後事を大海人皇子(大友皇子にとっては妃の十市皇女の父でもある)に託すが、大海人皇子はそれを拒否した。もし、大海人皇子が天智天皇の意を受け、義理の息子を気遣っていたら。→

2017-12-12 14:14:41
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

大友皇子の存在、彼を取り巻く環境も、空想の翼をはためかせてくれる。大友皇子、月並みな感想だが悲劇の皇子だ。父に将来を嘱望されたために、父の王位継承構想の破綻によって悲劇的な末路を歩まざるを得なかった。権力闘争によって悲劇的な最期を遂げた人物を、私は愛おしむ。→

2017-12-12 14:23:39
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

なお、『懐風藻』の評伝では、大友皇子は天智天皇の皇太子とされているが、それについては否定的である。そして、大友皇子が天智天皇崩御後に大王として即位したか否かについては、即位はしていないが、近江朝廷の主として大権を行使していたという見解であることを申し添えておく。

2017-12-12 14:33:58
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

大友皇子について追記。『懐風藻』には彼の漢詩が二首収められている。そのうちの「五言、述懐、一絶」の第三句には「羞づらくは監撫の術無きを」とある。「監撫」とは監国と撫軍を指す。天子が戦場に出る際に太子が留守を守るのが「監国」、天子と共に太子が従軍するのが「撫軍」である。→

2017-12-12 23:30:57
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

大友皇子は「監国」と「撫軍」の能力がないことが恥ずかしいと詩で語っているが、これは裏を返せば、自身が天智天皇の「皇太子」として自負していたことの表れである。→

2017-12-12 23:36:05
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

先述のように、私は天智朝において皇太子制の導入が実現していたとは考えていないが、大友皇子は史上初の太政大臣として天智天皇の後継者としての地位を確保した時に、隋唐から伝わった「皇太子」に関する知識を援用してこのような詩を作ったのであろう。→

2017-12-12 23:40:23
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

→「父上が律令国家を築き上げた時に、自分こそが皇太子となるのだ。自分こそが偉大な大王の後継者なのだ」という自負が、大友皇子の漢詩から伝わってくるのである。

2017-12-12 23:43:14

3,持統天皇

Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

3.持統天皇 天智天皇の第2皇女で、名は鸕野讚良皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘である遠智娘。父の弟である大海人皇子(天武天皇)の妃となり、天武天皇の即位によって皇后となる。夫と所生子である皇太子草壁皇子が没すると皇位に即き、父と夫の事業を引き継いで律令国家の完成に力を尽くす。

2017-12-31 22:15:13
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