一次史料から窺える金上盛満(盛備)について

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三浦介 @miurano_suke

以前も呟いたことだが蘆名家中筆頭として知られる金上氏は管見の限り大永年間を最後に天正4年まで表舞台から消える。

2017-08-06 23:10:57
三浦介 @miurano_suke

史料が残っていないだけという可能性はゼロではないが、永禄年間からはそれなりに蘆名氏絡みの外交文書は残っており、また、越後上杉氏と蘆名氏の間では活発な交渉があったのに越後方面に所領を持っていた金上氏が登場しないのは、その家格から考えてもやはり不自然に思われる。

2017-08-06 23:11:04
三浦介 @miurano_suke

よって金上氏はこの間、蘆名氏権力の中枢にはいなかった。少なくとも外交の場面からは外されていたと考えてよいのではなかろうか。

2017-08-06 23:11:35
三浦介 @miurano_suke

金上盛満(盛備、以下流布している盛備で統一)と盛氏や盛興との個人的な信頼関係については不明なものの、この頃の盛備は当主の腹心といったような立場でなかったと考えて大過ないと思われる。

2017-08-06 23:12:56
三浦介 @miurano_suke

その金上盛備に関連して天正15年、蘆名氏が越後新発田氏の反乱を支援した件について。 これも以前呟いたが、蘆名盛隆はこの内乱に巻き込まれないように距離を取ることに専心していたが、基本的な立ち位置は同盟していた上杉方であった(援軍も送っている)。

2017-08-06 23:14:25
三浦介 @miurano_suke

しかし盛隆が死に、その子亀若丸も早逝し佐竹義広が入嗣した頃、蘆名氏は一転新発田氏支援に踏み切る。

2017-08-06 23:15:03
三浦介 @miurano_suke

これは上杉氏と共に小田原北条氏に対抗していた義広の実家佐竹氏にとっても不利益であり、友好関係にあった上杉氏に対する背信行為であり、既に従属を表明している上方の豊臣政権の意向に逆らうことでもあった。

2017-08-06 23:15:52
三浦介 @miurano_suke

これだけはっきりデメリットばかりを招くであろう行動を蘆名氏が選択したのはなぜか。越後境の東蒲原郡を所領とし、蘆名氏の実験を握っていた金上盛備が「金上家の利益」に拘ったためではないだろうか。 金上盛備は案外恣意的で強引なところがある人物だったのかも…。

2017-08-06 23:17:38
三浦介 @miurano_suke

今回麒麟に出た里村紹巴は細川藤孝を通じて会津蘆名家家臣の金上盛満(盛備)とも関係があります! つまり蘆名家とも関係があります!!

2020-02-23 23:26:10
三浦介 @miurano_suke

「新編会津風土記 巻之五十三」にある金上盛備(盛満)の墓碑銘の「勇猛義気 剛勁忠情 臨危守節 忍死捐生」てカッコいいな! 後半の「臨危守節 忍死捐生」が特に(^_^)

2019-05-12 11:28:08