第19代・内閣総理大臣 原敬の生涯をまとめてみた

1921年(大正10年)11月4日 東京駅で刺殺された 第19代・内閣総理大臣 原敬の生涯を簡単にまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

積極主義とは、鉄道敷設などの利益誘導と引換に支持獲得を目指す集票手法の事です。 党内を掌握した原は伊藤や西園寺を時には叱咤しながら、融和と対決を使い分ける路線を採り、党内の分裂を辛うじて防ぎます。

2017-11-04 19:23:47
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西園寺公望書簡 明治35年11月28日 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/dDRr1OeAc8

2019-02-22 20:40:55
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しかし原の積極主義は「我田引鉄」と呼ばれる利益誘導政治を生み出し、現代に繋がる日本の政党政治と利益誘導の構造を造り上げる事になります。 我田引鉄とは、鉄道路線の敷設にあたって地元住民や政治家の介入が行われた事により、路線全体の価値に悪影響が出る事を揶揄した言葉です。

2017-11-04 19:33:07
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1902年(明治35年)に行われた第7回衆議院議員総選挙で原は、盛岡市選挙区から立候補して衆議院議員に初当選します。 日露戦争が始まった1904年(明治37年)12月 桂首相は政局の安定を図る為に政友会との提携を希望して原と交渉を行い、政権授受の密約を結びました。 pic.twitter.com/PlSchOvMcl

2017-11-04 19:43:06
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衆議院議員当選証書 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/Fyw5BdSbNF

2019-02-22 20:22:25
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1904年(明治37年)12月 日露戦争が始まると桂首相は政局安定を図る為、政友会との提携を希望して原と交渉し、政権授受の密約を結びます。 翌1905年(明治38年)桂内閣は総辞職。1906年(明治39年)約束通り西園寺公望に組閣の大命が下ると、原は内務大臣として入閣します。

2017-11-04 20:47:34
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これ以降、桂と政友会との間で政権授受が行われ「情意投合の時代」「桂園時代」と呼ばれる政治的安定期を迎えます。 1911年(明治44年)8月から原は鉄道院総裁に就任します。後に原は第2次西園寺内閣と第1次山本内閣でも内務大臣を務めます。 pic.twitter.com/IFYQ3L4fUd

2017-11-04 22:23:35
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辞令「兼任鉄道院総裁」※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/uYFEfYnIrY

2019-02-22 20:22:27
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内務大臣時代には、藩閥で任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施し、東京帝国大学(現:東京大学)卒の学歴を持つエリートに変えていきました。 1914年(大正3年)6月 原は大正政変の道義的責任を取り、辞任した西園寺の後任として第3代立憲政友会総裁に就任します。

2017-11-04 22:28:49
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渋沢栄一書簡 大正3年7月17日 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/2wAn6YfwH2

2019-02-22 20:40:56
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1918年(大正7年)9月にシベリア出兵に端を発した米騒動への対応を誤った寺内内閣が内閣総辞職に追い込まれると、対抗関係にあった山縣有朋も原を後継首班として認めざるをえなくなります。 大正7年(1918年)に成立した原内閣は、日本初の本格的政党内閣とされています。 pic.twitter.com/qmvTFDFqYg

2017-12-29 20:31:21
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原敬日記 大正7年9月29日条 ※購入した図録より 原敬記念館提供 pic.twitter.com/RC8DEGmuv0

2019-02-22 20:40:57
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原内閣の政策は、外交における対英米協調主義と内政における積極政策、それに統治機構内部への政党の影響力拡大強化でした。 原は政権に就くと、直ちにそれまでの外交政策の転換を図ります。まず「対華21ヶ条要求」などで悪化していた中華民国との関係改善を通じて、英米との協調を図ります。

2018-01-27 21:01:57
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そこで、原は寺内内閣の援段政策(中国国内の軍閥・段祺瑞を援護する政策)を組閣後早々に打ち切ります。 さらに、アメリカから提起されていた日本・アメリカ・イギリス・フランス4ヶ国による新4国借款団(日本の支那への独占的進出を抑制する対中国国際借款団)への加入を決定。 pic.twitter.com/SGJE5frRFd

2018-01-27 21:01:57
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第一次世界大戦の後始末でパリ講和会議が開かれたのも、原内閣の時代でした。この会議では、アメリカ大統領・ウッドロウ・ウィルソンの提唱によって国際連盟の設置が決められ、日本は常任理事国となります。 pic.twitter.com/W23KPxD0wA

2018-01-27 21:01:58
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しかし、シベリア出兵はなかなか撤兵が進まず、結局撤兵を完了するのは、原没後の1922年(大正11年)加藤友三郎内閣時代になってからでした。 内政については、かねてから政友会の掲げていた積極政策、教育制度の改善・交通機関の整備・産業及び通商貿易の振興・国防の充実の4大政綱を推進します。 pic.twitter.com/xE6UMA0lKJ

2018-01-27 21:01:58
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とりわけ交通機関の整備として地方の鉄道建設の為に公債を発行しています。 教育政策では高等教育の拡張に力を入れます。1918年(大正7年)原内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が4,450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出、可決されました。

2018-01-27 21:01:59
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計画は官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格です。 この計画はほぼ実現され、これらの官立高等教育機関の大半は地方都市に分散設置されました。

2018-01-27 21:01:59
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また私立大学では1920年(大正9年)に大学令の厳しい要件にも関わらず、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・國學院大學・同志社大学の旧制大学への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格します。 pic.twitter.com/ymsuaZMJ8D

2018-01-27 21:34:52
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この高等教育拡張政策は、第一次世界大戦の好景気を背景とした高等教育への求人需要・志願需要の激増に応えたものでした。 そして「高等教育拡散は高等遊民の増加を招き、皇室への危険思想につながる」と反対した山縣有朋を説得したものでした。 pic.twitter.com/PXCRCfLrZO

2018-01-27 21:34:53
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原はさらに軍事費にも多額の予算を配分、1921年(大正9年)の予算は1917年度(昭和6年)予算の2倍を超える15億8000万円にまで膨れ上がります。 多額の公債発行を前提とする予算案には野党憲政会、貴族院から多くの反対意見が上がりました。 pic.twitter.com/kkcOVLXQat

2018-01-27 21:34:53
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原は地方への利益還元を図って政友会の地盤を培養する一方で、同党の支持層に見合った規模での選挙権拡張を行います。 1919年(大正8年)には衆議院議員選挙法を改正。小選挙区制を導入すると同時に、それまで直接国税10円以上が選挙人の資格要件だったものを3円以上に引き下げたのです。

2018-01-27 21:34:54
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翌年の第42帝国議会で憲政会や立憲国民党から男子普通選挙制度導入を求める選挙法改正案が提出されると、原はこれに反対して衆議院を解散。 小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行い、単独過半数の大勝利を収めました。

2018-01-27 21:34:55
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首相就任前の民衆の原への期待は大きかったのですが、就任後の積極政策とされるもののうちの殆どは政商・財閥向けのものでした。 また、度重なる疑獄事件の発生や民衆の大望である普通選挙法の施行に否定的だった為、就任前後の評価は少なからず差があるようです。

2018-01-28 00:06:59
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普通選挙法の施行は、憲政会を率いた加藤高明内閣を待つ事になります。 原は政友会の政治的支配力を強化する為、官僚派の拠点だった貴族院の分断工作を進め、同院の最大会派「研究会」を与党化させます。 pic.twitter.com/WUgR5Cq3EA

2018-01-28 00:06:59
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