元寇はどこまで日本の脅威だったか&モンゴル軍はどこまで強かったか

#歴史オタクをどこまでイライラさせられるか選手権 という話題のハッシュタグの一つとして「元寇は武士のボロ負け、神風で偶然勝てただけ」が「イライラさせる言葉」の一例となってりました。 これは今、かなり払拭されたと思うのだけど、確かに一昔前そう言われてたのですよね。 しかし ・そもそも鎌倉武士はモンゴルに負けず劣らずヤバイ(笑) ・苦戦の記録は「だから恩賞たくさんくれ」と言う為に盛ってた? 続きを読む
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もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

「守護」というのは鎌倉で季長が直訴庭中した安達泰盛の子息、秋田城次郎こと安達盛宗の事で、実は「たかまさ」の船に乗船する直前に、安達盛宗の御座舟に「自分も守護の御手の者だ」と嘘をついて乗船しようとしてやっぱり速効でばれて乗船拒否をされているw

2018-09-20 11:20:23
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

そんな感じで「たかまさ」の船に乗せて貰った季長だが、兜を本船にいた若党に管理させて郎党の「もろさね」に持たせていたそうだが、着ける暇無く「たかまさ」側に乗船してしまったためやむを得ず臑当を外して結び合わせて兜代わりにしたらしい。

2018-09-20 11:27:25
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

その時季長は「命を惜しんでこのようにしている思わないで頂きたい、敵船に乗り移るまでの事で、敵方は熊手を掛けて生捕りにすると聞き及んでいるため、それで生捕られては異国へ連行されては死ぬよりも劣る事です。もし熊手に掛けられたら草摺のはずれを切って頂きたい」と「たかまさ」に言ったそうな

2018-09-20 11:32:22
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

これに「たかまさ」は「不覚仕りました、貴殿御親類の野中殿だけでも乗せて差し上げるべきでした」と責任を感じて自らの若党から兜を脱がせて与えようとしたそうだけど、季長は固辞して「有難い事ですがこれで若党が討取られでもしたら、季長のために討取られてしまったと妻子が嘆かれる事でしょう、

2018-09-20 11:36:30
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

それは季長としても身の痛みでありますので、どうかお止めください」と答えたものの「たかまさ」がそれでも与えようとするので再三固辞して引き止めたらしい。結局臑当姿で敵船に乗り込み武功を上げたようで、絵詞では合戦後に前述の安達盛宗での報告で船上での戦いで彼がかき切っていたものと思われる

2018-09-20 11:44:20
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

「すゑなかふんとりのくひ」2つが描かれている。 この敵船に乗船し敵方の首を取る場面で「肥後國/一番/打凶徒」と朱・墨で書かれている事は、彼にとって大事で、生の松原に陣を敷いていた安達盛宗のもとで戦功を報告しているのだが、

2018-09-20 11:54:39
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

先般、建治二年(1276)に安達泰盛が肥後国守護となり、これに伴い子息であった安達盛宗は肥後国守護代として九州に下向しており、季長が彼を「守護」と呼び戦功を報告しているのはこれらの事情に依る。そこで季長は配下の手傷に加えて「當國(肥後国)一番にひきつけにつく」と(誇らしくw)記している。

2018-09-20 12:01:45
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

そこで、先般「関東の御つかひ」で季長とやり取りをしていた合田五郎遠俊という人物がいるが、遠俊の仮館に閏七月六日拂暁に五日夜半の合戦での条々を申し入れした折に、「仰せは先程から承っております、前々の合戦も相違なかったと覚えております」と開口一番に言われている。

2018-09-20 12:12:16
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

続けて「自船がなく、嘘(かり事)を仰せられて船々に乗られ、御大事に間に合わせられた御事は、大猛悪の人(大変勇猛な人)であると、上(将軍)の見参に入れられる事に致しましょう」と激賞されている。ここら辺は鎌倉での庭中における安達泰盛からの評とも重なるw

2018-09-20 12:16:48
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

ここで注意しなければならないのは、竹崎季長が鎌倉での強弁や鷹島沖海戦で嘘をついてまで先駆けをした事も重要だが、それ以上にそれらを安達泰盛や合田遠俊がその剛胆さを称讃し高く評価してくれた、という点で、或いは肥後国守護代安達盛宗がしっかり書付けて「肥後國一番の先駆け」と認めてくれた、

2018-09-20 12:22:50
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

という点だろう。竹崎季長が文永の役での戦功を巡って鎌倉まで上がって裁判を起こし、「御恩奉行」だった安達泰盛に直訴までした事を思い起こさねばならない。そこで季長が問題にしたのは「日の大将」でもあった少弐景資から評価されたにも関わらず同じ大宰府守護所の首脳であった彼の兄 少弐経資から

2018-09-20 12:27:50
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

文永の役での季長の戦功を、将軍に上程する「注進から漏れたしまった(少弐経資のせいで報告から漏れてしまった)」という点だった。無論、庶子であったらしく所領がない「無足人」であった竹崎季長はこれをチャンスとしてまさに「一所懸命に励んだ」のに、この仕打ちに経済的にも武家の面目的にも

2018-09-20 12:31:40
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

面目丸つぶれに我慢ならずに裁判を起した訳だが、それが弘安の役では大宰府守護所を通さず、九州に下向した幕府要人の関係者が守護代として領国内の御家人達を監督して「上(将軍)への見参」へのその論功行賞を請負っている点で、軍功の処理手続きに変化が見られる事だろう。

2018-09-20 12:36:51
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

しかも絵詞に描かれているように、それを書面で書き付けている点でも重要になろうか。>図は絵詞後巻 第40紙 絵21の季長(左の甲冑の人物)が肥後國守護代安達盛宗(緑の直垂の人物)に「ふんとりくひ」2つをもって戦功を報告する場面。烏帽子僧形の「執事」が紙筆を携行してるのに注目。>うぃきから pic.twitter.com/OC8WnbYCzT

2018-09-20 12:47:31
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もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

余り知られていない事らしいけど、室町〜戦国時代に一般化した「軍忠状」は実は文永の役の頃はまだ無かったらしくて、「軍忠状」に類するものが文永の役後、弘安の役辺りから記録として残るようになったらしい。 >漆原徹「中世軍忠状とその世界」(1998) twitter.com/mongkeke_tarik…

2018-09-20 12:53:36
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

漆原先生によれば、源平合戦の頃まではその日の合戦の戦功等は合戦が終わった後に口頭で注進を済ませてしまっていたため、御家人側には自他にその戦功を明示出来る物的な証拠が残らない(残すまでもない)、という感じだったらしい。 >漆原徹「中世軍忠状とその世界」(1998) yoshikawa-k.co.jp/book/b32706.ht…

2018-09-20 12:59:30
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

ところが、文永合戦ではそこら辺のルーズさが竹崎季長のような形で不満を募らせる事になったため、幕府の監督側からその軍功を認めたと言う証書を残すようになっていったらしい。それが弘安の役前後で後世各地の武家に伝世された「軍忠状」の最も古いものが実は弘安の役のものから増え始めるのだそうな

2018-09-20 13:04:36
もんけ(歴史) @mongkeke_tarikh

つまり、御教書等の領地の安堵等とは別に、個別の軍功を証明する「軍忠状」という室町〜戦国時代には一般化する文書が、実は蒙古襲来の合戦に直接の起源を有しているそうで、そう言う意味でも蒙古襲来はその後の日本の文書システムのひとつの伝統を作り出した事件でもあった、という事らしい。

2018-09-20 13:08:23
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