元寇はどこまで日本の脅威だったか&モンゴル軍はどこまで強かったか
- gryphonjapan
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それで、射落とされた「大将軍」はそのまま自らの郎党達に守られて撤退したそうだが、合戦後に生捕られた蒙古側の者達の証言に寄れば、その大将軍は「蒙古ノ一方ノ大将軍流将公」であったという。
2018-09-19 23:42:48>菊大路本では、退却後その場に大将軍の栗毛の馬が鞍ごと残されていたので、その馬の持ち主は誰だったか生け捕りになった捕虜に尋問したところ、というような表現がされている
2018-09-19 23:43:14この「流将公」が射られた場面は菊大路本のように博多での戦闘中とするものと、江戸時代に橘守部が見出した「八幡蒙古記」のように幕府軍側が博多から水城へ撤退後にその水城の辺りへ前線視察してきたらしい「りうしゃうこう」を、水城側から迎撃した景資側郎党が射たとするバージョンがある。
2018-09-19 23:46:49ちなみにこの話は日本側資料では八幡愚童訓にしか出て来ないもので、蒙古襲来絵詞でも出て来ないものだ。実際、高麗史では文永弘安の役の時に高麗軍部隊の司令だった金方慶の列伝によると、遠征軍のNo.3である左副元帥だった劉復亨が「流矢に中る」と記されており、
2018-09-19 23:53:05後に江戸時代に多く書かれた蒙古襲来関係史論の類いでは、高麗史や高麗史節要を元に編纂された東国通鑑でも同文があることから、八幡愚童訓の「流将公(りうしやうかう)」をこの左副元帥 劉復亨に比定している。 >なお元史の劉復亨伝では「流矢に中」ったという記事はない
2018-09-19 23:56:38>致命傷事案 しかし、蒙古軍側の指揮官の名前が全然出て来なかったなぁ… あと、宗資國を「宗助国」にするとか江戸時代以降の表記で良いの…? あと異国降伏の祈禱は国書到来直後に幕府も朝廷も率先して寺社に命じてるから、文永の役直前の趙良弼の時には普通にずっと行われてたんだけど…
2018-09-20 00:10:37>致命傷事案 あと、これは自分的にあからさまに致命傷だったんだけど… 「蒙古襲来」でちょっと安心したと思ったらモンゴル皇帝の事を「フビライ」って…(大吐血死
2018-09-20 00:12:04ああ… だめだ、自分で文字打って致命傷を負った感じのでフォロワー諸氏は可能ならば小生の後生を念じて六字名号か光明真言ないし宝篋印陀羅尼(徒然草調べ)にて供養を…|q^)>南無阿弥陀仏!
2018-09-20 00:17:51>致命傷事案 あと、蒙古軍撤退の原因を自発的なものとはっきり述べたのは多分某S山先生辺りが最初くらいだろうけど、それを「鎌倉武士側の奮闘のため」と言い始めたのは番組にも登場した某先生と他2、3人くらいで、「自発的撤退」は有力かも知れないけど、「鎌倉武士側の奮闘のため」までかは微妙…
2018-09-20 00:24:45>「鎌倉武士側の奮闘のため」と喧伝しているのは、某巨大ネット百科の編集界隈では有力だろうけど、鎌倉時代史をやってる先生方はまだそこまでの確証を得られる程研究に傾注しているかと言われると非常に微妙。 >番組的な印象操作の匂いがする
2018-09-20 00:27:24蒙古襲来絵詞での文永の役部分での蒙古側に矢が目に当たっている場面や、弘安の役の鷹島沖襲撃戦での蒙古側の鼻を摘んでいる場面は、そうはっきり判断出来るかは光学分析をかけないと駄目な話だと思うけど、詞書に無い内容を断定するのは極めて危険ではとも。>無論「糞尿投擲」なんて本文はない
2018-09-20 00:32:02>大体、元史日本伝の「矢尽き」やら高麗史金方慶伝等の(都元帥 忽敦の)「疲乏の兵を策して、日ごとに滋す衆に敵するは完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」とかを引用するなら、その直前直後の「ただ四境を虜掠して帰る」とか「倭大いに敗れ、伏屍すること麻の如し」といった文言も紹介すべきではと
2018-09-20 00:44:18>「倭兵大いに敗れ…」か(汗>誤脱落にごわす まあでも、今まで余り触れられてなかった「張成墓誌銘」とか薩摩の「延時氏文書」の紹介はあったからそれらは良いのかな… >志賀島合戦は高麗史や元史でも触れられてるから「張成墓誌銘」だけを取り上げたのは不審だけど…
2018-09-20 01:09:06「張成墓誌銘」というのは池内宏『元寇の新研究』(229頁)で取り上げられているせいか、その界隈ではそこそこ有名みたいだけど、元々は池内本でも説明されてるように、大正十四年に岩間徳也が遼東半島の金州城外で発見したという弘安の役時の東路軍隷下の管軍上百戸の張成 twitter.com/mongkeke_tarik…
2018-09-20 01:41:59という人物の顕彰碑から孫引き去れたもので本来は「皇元故敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘」と言っていたものらしい。岩間徳也は拓本を取って東洋文庫に収めたらしいけど、帰国後『元張百戸墓碑考 : 明の金州衞儒学と其の先師廟碑記』(1925)と題して報告書を出版したらしい。 ci.nii.ac.jp/ncid/BA36583108
2018-09-20 01:49:07ところが、どうも強大当代、筑波大等、国内では数カ所しか収蔵してないっぽくて、同碑銘の全体像は(『新研究』以上の内容は)自分も確認出来ていない(汗 ただ、高麗史金方慶伝でも弘安の役での志賀島での合戦は幕府軍と一進一退状態だったので、敢えて墓碑の資料的価値を言うなら、
2018-09-20 01:56:07碑文建立が張成の子孫ではあっても一応元朝時代の碑刻資料である事と、六月中の合戦で日時が書かれている事、金方慶伝等と内容が一致する事、辺りだろうか。 特に高麗史節要では(金方慶伝では日時が不明になってるが)六月八日、九日の合戦から始まっているが、
2018-09-20 02:06:47六月六日志賀島に上陸した東路軍が夜半に襲撃を受けて連日合戦に及んでいた事を述べている点だろうか。そこで『新研究』が引用する墓碑銘では合戦場所を「以六月六日至倭之志賀島、夜将半、賊兵□□来襲…」と「志賀島」と地名を正確に写しているらしい。これは拓本を実見しないと何ともな感がある。
2018-09-20 02:12:55@naoejou これ、よくぞ実写でやってくれましたね🎵 ここまでやるなら、すねあてはずしたはかまが、かぱかぱなとこまでやって欲しかった🎵 絵巻はちゃんとそうなってますよね。
2018-09-19 23:48:36@fujinasubi 慌てん坊竹崎さん可愛いですね笑 かぱかば見たかったw pic.twitter.com/FVDJl9zJYE
2018-09-20 08:36:19@fujinasubi 安達泰盛に「恩賞くれよ!」と直談判しに行ったり、細かい描写の絵まで描かさせて自分の武勇をアピールする季長さん…好きです😂
2018-09-20 11:41:05竹崎季長はこの閏七月五日の海戦のおり、先駆けが出来そうにない事に焦って「たかまさ」という御家人の乗船に「守護が直々に仰せ付けられたい事があるので近くに船を寄せ付けられたい」と嘘報告をして乗船しようとしたところ、流石にあからさまだったので速効でばれたらしいw twitter.com/naoejou/status…
2018-09-20 11:00:32ただ、その後が季長らしい感じでw、嘘をついた事を素直に認めてそれは自分の乗船する船足が遅すぎるので無理を言って頼んだ事を告白すると、「たかまさ」はそれに感じ入ったようで、ひとりだけなら余裕があるの乗せられると答えて、季長は郎党達を(説得しつつw)残して乗船させて貰ったのだそうな。
2018-09-20 11:04:10