細谷十太夫直英のこと

「からす組」(衝撃隊)細谷直英の生涯が気になったので調べたのを整理しがてら適当につぶやいたのでまとめました。
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銅折葉 @domioriha

結局このへんの活動は叶わなかったらしい。1896年4月に細谷は仙台へと戻る。再び石巻に戻って開拓事業を指導したようだ。凱旋直後の招魂祭でも、総督や乃木師団長に混じって祭文を読んでいる。

2018-03-03 20:35:04
銅折葉 @domioriha

細谷の出家が明治36年なのは前に書いたが、これにまつわる話として桜岡公園の記念碑の話がある。戦没者の慰霊と招魂のために建てられたものだったが、石造りの頑丈なものではなかったため、明治35年の暴風で木が倒れ破壊されてしまった。これを見て細谷は西禅師に弟子入りして僧になったという。

2018-03-03 20:40:54
銅折葉 @domioriha

だいたいこんなところが今日の収穫。不明だった足取りがほぼ拾えたような気はしている。

2018-03-03 20:41:33
銅折葉 @domioriha

先日の細谷十太夫の写真がいつのものか(僧形なのと出家後と注釈があるので推定明治36年より後)出典が分からないため探していたがいくつか回った図書館の本ではまったく不明だった。……のだが、偶然「奇談追跡」で那珂郡暴動(真壁一揆)と中山信安と囚徒暗殺団の話をみつけた。

2018-03-04 15:26:09
銅折葉 @domioriha

出典が明瞭でないのならあわよくば文ちゃんが撮ったことになんねーかなって感じなのだが、そもそもwikipediaとかはこれどこから持ってきたんだ。 twitter.com/domioriha/stat…

2018-03-04 15:27:15
銅折葉 @domioriha

>ビジュアル幕末1000人 いやだからそのビジュアル幕末1000人に載ってる写真の出典だってばよ。(もしかして巻末にでも書いてあったのだろうか

2018-03-04 15:29:17
銅折葉 @domioriha

2018年2月11日の読売ONLINEにちょうどこの記事があり、 「闇に紛れ連戦連勝…戊辰戦争」 yomiuri.co.jp/local/miyagi/n… その中にあった記事のキャッシュによると、おそらく例の写真が提供され、キャプションが「晩年の細谷十太夫(龍雲院提供)」。なるほど。 webcache.googleusercontent.com/search?q=cache…

2018-03-04 16:04:41
銅折葉 @domioriha

なんか色々行き詰まってる感じがするのであれからさらに調べた細谷直英の話の続きというか補足をする。

2018-04-03 22:47:39
銅折葉 @domioriha

北海道開拓時代の細谷の動向として、こちらの本を読んだ。タイトルにある天田愚庵は清水次郎長の養子になった侍にして歌人なのだが、細谷の動向関係で大事なのは江政敏のほう。 坊主持ちの旅ー江政敏と天田愚庵 不破 俊輔 amazon.co.jp/dp/4832815067/… @amazonJPさんから

2018-04-03 22:50:13
銅折葉 @domioriha

江雅敏は幕末生まれの明治の実業家で、明治13年頃から北海道の漁場を得て開拓事業を行った。細谷と関係があるのは明治21年頃から始めた十勝外四郡の共同漁場の運営に関して。明治22年6月、細谷は仙台の門脇大街道の開拓事業の一段落を待って北海道へと渡る。

2018-04-03 22:53:49
銅折葉 @domioriha

江と細谷はこの本では旧知だったことになっている。時期的には戊辰戦争の時に知り合っていたのだろうか。現地の住民に開拓を指導するにあたり、細谷は幻灯(スライド)を買い込んでまで農業を教えたとある。23年の決算は江の代理として細谷が作成している。

2018-04-03 22:56:56
銅折葉 @domioriha

この本の中では細谷はあまり資料作りが得意ではないと触れられているが、江と細谷の間で拗れた訴訟のおりに細谷が裁判所に提出した一連の書類は、農業と荒事一辺倒の男とは思えないほどに細かい部分にも触れられて理路整然としており、まったく不慣れなことをしていたということは無いと思う。

2018-04-03 22:59:05
銅折葉 @domioriha

作中で細谷は「戊辰戦争や西南戦争の血生臭い荒事が忘れられず」となっているが、どっちかというと県の官吏、開拓の代表や事業の監督、部隊の隊長として活動していた時期が長く、こういう立場が事務手続きや交渉ごとに粗雑な人間に務まるとはちょっと考えにくい部分もある。

2018-04-03 23:00:56
銅折葉 @domioriha

明治24年、地元の住民たちによる江への反対運動が起こり(経緯は非常に複雑なのでここでは省略)、この年の7月9日に江によって呼び出された細谷は直接代理人を辞めている。このあと細谷が十分な引き継ぎをしなかったとして江との間にトラブルが起こることになる。

2018-04-03 23:03:13
銅折葉 @domioriha

細谷は8月23日に仙台へと帰郷。代理人は細谷の息子である重太郎に引き継いだ、らしい。(重太郎のことはこの本で始めて知ったが、例の裁判書類の関係に載っていた)本の中ではこの後の展開はかなり江に同情的に書かれているが、引き継ぎに関してトラブルがあったことは間違いない。

2018-04-03 23:07:06
銅折葉 @domioriha

でもって、これまでするっと流していた細谷とからす組の戊辰戦争での活躍について。これはこちらの本に1章をまるまる割いて戦いの経緯が記されている。 明治の群像〈第2〉戊辰戦争 (1968年) amazon.co.jp/dp/B000JBGX2Y/… @amazonJPさんから

2018-04-03 23:08:22
銅折葉 @domioriha

出典には藤原相之助の仙台戊辰史などが引かれているので、こちらは国会図書館デジタルライブラリーで読んだものとたぶん同じ流れだが読みやすいと言うのはこちらの方が楽だった。

2018-04-03 23:10:03
銅折葉 @domioriha

白河口の戦いで新政府軍が白河城を占拠したところに細谷が登場する。白河奪回を進言する細谷だが上層部は弱腰でこれに応じず、立腹の中どうにか藩の主力を奮い立たせる事はできないかと考え、宿場で旧知の侠客らと共に衝撃隊を結成することとなる。

2018-04-03 23:12:32
銅折葉 @domioriha

5月11日の戦闘を皮切りに戦線に参加した衝撃隊は、百人ほどにも増え鉄砲なども多く補給され、わずかな被害で敵を撃退することを繰り返している。からす組は非常に奮闘し士気も高く大きな戦果を上げたが、藩本隊と連動して動く大きな戦争の流れの中で、動きの鈍い本隊のため何度も好機を逸している。

2018-04-03 23:16:15
銅折葉 @domioriha

細谷とからす組は何度かの敵との交戦で、夜にまぎれて奇襲をかければ敵軍をたやすく打ち破る事ができることを学び、それを得意としていたのだが、大規模な戦いでは本隊と連動できないまま時間を浪費させられ、その機会を何度も逸することになっている。

2018-04-03 23:17:37
銅折葉 @domioriha

6月6日の太田川、16日の和田山、7月1日の白河口の戦いのいずれも、細谷は自分の進言した奇襲作戦に対して藩の本隊の連絡の不徹底と行動の鈍さで絶好の機会を逃している。

2018-04-03 23:20:14
銅折葉 @domioriha

度重なる失敗にとうとうキレた細谷は自ら須賀川の本陣に乗り込んで参謀に詰問している。結果、戦局挽回のための大攻勢、総攻撃が計画された。7月14日夜襲で始まるこの作戦は、しかし深夜の大雨で進軍に手間取り、さらにいくつかの部隊が独断離脱して戦線からいなくなる事態に発展する。

2018-04-03 23:23:30
銅折葉 @domioriha

そうしてここでも、細谷は仙台藩の連携の不十分に巻き込まれる形で白河口の戦いに敗北する。 そのまま二本松方面へ転戦した細谷だが、こちらには既に新政府の大軍勢が布陣しており、からす組への支援はほぼ無いに等しい状態であった。

2018-04-03 23:25:28
銅折葉 @domioriha

ここでも撤退をした細谷とからす組は、細谷の読みにしたがって浜街道に戦力を集めていた友軍と合流する。旗巻の陣で細谷は副参謀に任命される。旗巻峠での戦いでもからす組は奇策を用いて少数を大勢に見せかけるなど奮戦するが、彼らの勢いに主力となるべき藩兵が続かず、反撃の機会を逃す。

2018-04-03 23:27:39
銅折葉 @domioriha

副参謀となって戦局や自軍の状況に目を向けるようになった細谷は、自分たちの劣勢を目の当たりにする。それでも細谷たちが旗巻峠を死守せんとしていたところで、仙台城で降伏の準備が進められているという噂が流れる。細谷が城に駆けつけた時には、ほぼ時勢は決していた。

2018-04-03 23:29:56
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