細谷十太夫直英のこと

「からす組」(衝撃隊)細谷直英の生涯が気になったので調べたのを整理しがてら適当につぶやいたのでまとめました。
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銅折葉 @domioriha

なお、細谷の長男である十太郎氏は台湾からニューギニアに渡り、30年近くも開拓に従事して昭和7年に帰国した旨が新聞などに残されている。こちらもまた非常に波乱に満ちた人生を送っていられるようだ。

2018-03-01 22:48:55
銅折葉 @domioriha

以上。雑駁な文献15本くらいとネットのサイトを引っ張っても多くの足跡が見え、とても魅力的な人物であった。なおお写真がこちら。からすカラスっていうか天狗感すごいですね。 ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0… pic.twitter.com/JWU4jfsRki

2018-03-01 22:50:49
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銅折葉 @domioriha

ということで今日一日細谷十太夫直英の資料を漁ってきたので(買ってきた本いま読み終えた)いくつか補足をしていくよ。

2018-03-03 19:17:07
銅折葉 @domioriha

咸臨丸のボイラー士を務め、後に榎本艦隊に加わった小杉雅三(雅之進)の生涯を描く「咸臨丸還る」(橋本 進)によると、細谷が仙台藩降伏後も仙台近郊にとどまり、函館の榎本艦隊の元へ情報を流していたらしき事が確認できる。(小杉の残した戊辰戦争の記録、麦叢録に「内地に残した間諜」の記載あり

2018-03-03 19:22:39
銅折葉 @domioriha

明治5年に細谷が(それまでにすでに北海道に内々に派遣されてはいたが)北海道開拓使として正式に吏員となって採用された件については前に書いたが、その翌明治6年に吏員を辞し、磐前県(福島の浜通りのあたり)に奉職、磐前県が廃止になる明治9年まで在職していたとのこと。

2018-03-03 19:25:26
銅折葉 @domioriha

西南戦争に赴いたのが明治10年で、その前の足取りがはっきりしていなかったのだが、どうやら磐前県の廃止された明治9年8月まではこれで明瞭になった。同年の3月に廃刀令があり、8月には俸禄の廃止があって、10月から神風連の乱や萩の乱、翌明治10年2月が西南戦争になる。

2018-03-03 19:30:14
銅折葉 @domioriha

磐前県はそのまま福島県の設置に組み入れられており、役職を引き継ぐことは普通に可能だったと思うが、そこで身の振り方を変えたのはこのあたりの武士の時代の終わりに対して思うところがあったからだろうか。

2018-03-03 19:34:49
銅折葉 @domioriha

前述したが小杉雅三は細谷の三男である辰三を養子にしている。小杉辰三は海軍技官を務め、東京で書籍業を営む小林清一郎と共に明治38年に小林製鋼所を創業するが、技術の不足などもあり失敗。外部資本に鈴木商店が参加し神戸製鋼所に名前を変え再スタートした。辰三も初代技師長として参加している。

2018-03-03 19:38:01
銅折葉 @domioriha

次、明治15年の幕別町開拓の話から後の細谷の足取り。伊能忠敬研究会の松宮輝明氏が「阿武隈サロン」に連載していらした記事が公開されていたのでそこを参照すると、明治12年に宮城県職員になり、門脇大街道の開拓事業に取り組んだ後、明治22年に県の命令で北海道に渡り耕作を指導した、とある。

2018-03-03 19:43:51
銅折葉 @domioriha

以前の訴訟の記録を見ると明治24年まで細谷は江政敏の代理を務めていたのと、江が事業を始めたが明治21年なので、概ねこの時期と状況が合致している。明治15年の幕別町の記録は、以後10年近くを北海道に滞在したわけではく思われ、一時的な出張だったのだろうか。

2018-03-03 19:45:34
銅折葉 @domioriha

さらに次。仙台市史の編纂に携わり、早い時期から(賊軍とされた扱いの異議と名誉回復のため)戊辰戦争の研究に携わり、仙台戊辰史を発表した東北新聞主筆・編集長の藤原相之助の残した記録がある。戊辰戦争の細谷の記録はここに非常に細かく残されているようだが、

2018-03-03 19:49:42
銅折葉 @domioriha

藤原は細谷と深い面識があり、何度も会って当時の話を聞いており、それをエッセイ集のような伝奇記録をまとめた「木魚音」内の「細谷鴉一夕話」に書き残している。この会話があったのが明治26年とされている。

2018-03-03 19:52:32
銅折葉 @domioriha

細谷鴉一夕話の中では、西郷従道と品川弥二郎が国民協会の支部結成のため仙台に来た時、細谷と西郷が面会し、従道が「もし細谷と出会っていたら首がなかった」という冗談を直接本人に口にしているというエピソードも語れている(おそらくこれも明治26年のこと

2018-03-03 20:00:21
銅折葉 @domioriha

そして日清戦争当時の細谷の動向。これは「兵士と軍夫の日清戦争」(大谷正)に非常に詳しく載っていた。明治27年、清への出兵が叫ばれる中、(どうしても戊辰の汚名を濯ぐという意識の残っていた)軍都仙台では、義勇軍として参加したいという声が高まり、いくつもの活動が起きていた。

2018-03-03 20:04:18
銅折葉 @domioriha

細谷の名前が最初に挙がるのが明治27年7月で、仙台義団の名前で義勇軍の参戦願いの発起をした記録がある。当時の日本は初の近代国家との戦闘として制御された近代化された軍隊での戦争をしたいという意識があり、最終的に勅が出されて義勇軍は募集しないことになる。

2018-03-03 20:05:47
銅折葉 @domioriha

その結果、後方支援・物資輸送や工兵としての「軍夫」の形で募集が進められた。軍夫の名前自体は西南戦争の頃から見られるようだが、位置づけとしては非戦闘員でありつつも、実際には激しい戦火にさらされる立場で、かつ参加側も「名誉の半軍人」であるという意識が強かったらしい。

2018-03-03 20:07:12
銅折葉 @domioriha

軍夫は二十人長、百人長、千人長の形で概ね小隊、中隊、大隊の形を取っていたらしい。仙台の第二師団には6人の千人長が位置づけられ、その中の一人が細谷だった。担当は弾薬大隊と馬廠。なんとも過酷なものを運ぶ役目だ。

2018-03-03 20:10:02
銅折葉 @domioriha

軍夫の多くはならず者や博徒、元侍といった層が含まれており、あくまで非戦闘員という立場をコントロールするため、千人長は宮城、福島、岩手、山形などの各県の県庁吏員が選ばれている。その中で細谷はかなり異質な立場であったようだ。

2018-03-03 20:12:14
銅折葉 @domioriha

軍夫の姿は西南戦争当時の古軍服を引っ張り出して着ていたり、中には戊辰戦争当時の姿に近かったりするものも多く、(規律で縛り統一した装備を持たせる軍ではないこともあって)統制はなかなか難しかったらしい。かく言う細谷本人も、緋フラネルの軍服の背中に黒い鴉の刺繍を入れさせていたそうな。

2018-03-03 20:15:44
銅折葉 @domioriha

この記事で細谷は「五十余歳」とあって、やはり天保11年生まれ68歳死亡説が正しいのではないかという気はする。細谷の所属していた第二師団は明治28年(1895年)1月に日本を出発、20日に山東半島に上陸。その後4月まで冬の過酷な寒さの中を転戦する。

2018-03-03 20:20:43
銅折葉 @domioriha

凍傷に苦しむものが多く、特に高齢で装備も貧弱(軍靴ではなく草鞋ばきのものも多かったという)軍夫たちは大きな犠牲を出した。それでも東北の軍夫たちは他の師団に比べて統制が取れ、寒さに強く頼りになったという従軍記者の記録もある。(なお、当時の物資運搬は馬が不足しており大八車による人力

2018-03-03 20:22:35
銅折葉 @domioriha

なお、この軍夫としての出動にあたり、陸軍中尉になっていた元からす組の副長、矢野長利が止めたのを、細谷は「いい死に場所ができた」と語っていたとか。

2018-03-03 20:26:12
銅折葉 @domioriha

日清戦争は1895年5月の下関条約で終結したものの、割譲された台湾では激しい抵抗運動が起こり(乙未戦争)、その平定のために急遽、凱旋途中の兵士が歩兵第17連隊として送り込まれることになる。これに細谷も軍夫としてしたがっている。

2018-03-03 20:28:05
銅折葉 @domioriha

極寒の冬の大陸から、一転ジャングルのような南の台湾へ。今度は疫病に苦しむことになり、そこにゲリラ戦を仕掛ける抵抗勢力とぶつかり、終わりのない闘争に17旅団は相当の疲弊を強いられる。百人長クラスも命を落とすようになる中、細谷はひどく元気であった。何なのこの人。

2018-03-03 20:29:55
銅折葉 @domioriha

歩兵第17連隊の軍夫総取締として真っ先に台湾入りし、台南攻略戦にも混成旅団として参加。「台湾不毛の地を開拓して部下500人と移住する決心のもと奔走出願中」とのことで、これが1896年1月や3月の記事に見える。

2018-03-03 20:32:24
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