細谷十太夫直英のこと

「からす組」(衝撃隊)細谷直英の生涯が気になったので調べたのを整理しがてら適当につぶやいたのでまとめました。
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銅折葉 @domioriha

戊辰戦争当時は出家をほのめかしながらも俗世に留まり続けた細谷が、晩年になって出家し龍雲寺に入った契機として、日清戦争の他にこの災害の犠牲者を思う心があったのかもしれないと、寄稿は結んでいる。これらの背景は晩年の細谷の活動としてこれまでほとんど知らなかったので、とても興味深かった。

2019-05-01 21:44:05
銅折葉 @domioriha

次。東北歴史博物館の図書室で石巻市図書館和漢古書目録について見ることができた。これには細谷が晩年に石巻尋常小学校に寄贈した書籍の目録について記されており、そこに細谷の経歴などがこれまでにない側面でいくつか触れられていた。

2019-05-01 21:46:38
銅折葉 @domioriha

背丈が5尺2,3寸(約160センチ)というのと、武術で鍛えたため筋骨たくましく首のまわりの太さが特徴的であったことや、剣術、馬術にも優れていたことが記されている。(余談ながら宮城県図書館での資料では、若き日の細谷が京都に向かう途中、賊に対して自慢の槍を構え応戦した話があった

2019-05-01 21:48:43
銅折葉 @domioriha

もう一点、細谷は大街道の開墾から石巻に滞在していたそうで、こちらにしばらく居住していたらしいと言う。また、明治26年に細谷が十勝アイヌの勧業奨励を政府から嘱託されて北海道に渡ったとの記述がある。

2019-05-01 21:52:35
銅折葉 @domioriha

これまで細谷は明治22年頃から十勝で江雅敏の代理を務め、明治24年には仙台に帰っていたことはわかっていたが、その後にもう一度北海道に渡ったということだろうか。となるとこれは十勝毎日新聞七十年史の明治27年の細谷の記述は正しい可能性がある。

2019-05-01 21:53:38
銅折葉 @domioriha

いずれにせよ、仙台義団結成の時には細谷は仙台にいるはずなので、明治27年7月には仙台に戻ってきているはずだ。

2019-05-01 21:54:40
銅折葉 @domioriha

そして細谷が寄贈した本についても興味深い。細谷が蔵書を寄贈したのは明治35年。目録を確認すると一部は37年となっているものもあった。和書34点、漢籍9点。農業書や畜産書、漢籍は漢詩などが多い。細谷の学識に関する理解の一端になるように思う。

2019-05-01 21:56:40
銅折葉 @domioriha

記事によると細谷は明治36年5月に石巻を引き払って仙台に移ったようだ。このあと同じ36年中には横浜にある西有寺で西有穆山禅師に師事し修業して得度を受けて、さらに世田谷の剛福時で修業して龍雲院に戻ることになる。

2019-05-01 21:59:13
銅折葉 @domioriha

辞世の句は「宵越しの 銭ももたずに 眠りけり 鴉仙」。 最後の最後までバイタリティに溢れた活動をし、波瀾万丈な人生を送った人物であり、この国のため土地のため、多くの人々と共に尽力をし続けた方であるというのが本当によくわかった。

2019-05-01 22:00:54
銅折葉 @domioriha

さて原稿も終わったので久々に図書館行っていろいろ読んできたよ。相変わらず細谷直英と中山信安の資料調べだ。

2019-11-10 16:19:04
銅折葉 @domioriha

細谷十太夫直英の「細谷武一郎」名義での活躍について。細谷は仙台藩における戊辰戦争での功績をたたえられ、藩主伊達慶邦から「武一郎」の名をもらっている。この名前でネット検索を掛けていたところ、明治4年頃に「仙台藩産物掛」の「細谷武一郎」が士族救済のため養蚕業をはじめた記載がある。

2019-11-10 16:23:00
銅折葉 @domioriha

で、調べたところ吉川弘文館「幕末維新論集6 維新政権の成立」にこれの記載があり、.明治4年2月、北海道産物掛の任にあった細谷が、仙台藩権大参事の松本儀次(八郎)と共に士民救助のために養蚕講成立をはかり、フランスのファーブル・ボールン商会より6万円あまりを借り入れていたとのこと。

2019-11-10 16:26:55
銅折葉 @domioriha

これについては「日本貨幣金融史研究」升屋の藩債(関山直太郎)によってもう少し詳しく知ることができた。明治4年正月に細谷はファーブルから現金二万五千弗、汽船購入費二万五千弗、砂糖買入代五千三百弗を借り入れ、士族救済事業としての養蚕講を発企した。

2019-11-10 16:32:07
銅折葉 @domioriha

つまり元々は細谷たち発起人たちの借金であった。この借用証書に権大参事松本が情を知り、藩印を押して藩の借財となったという経緯らしい。 ただこれ、藩として生糸貿易に動くことは政府の藩営貿易禁止に反してしまうため、講の形をとり旧仙台藩の蔵元「升屋」の深川店手代をたてた対策でもある模様。

2019-11-10 16:35:29
銅折葉 @domioriha

この後、藩財政を明治政府が管理することになって、升屋の債務を肩代わりするための書類などを大蔵省に提出させたことから、明治5年1月に升屋が経緯を説明する嘆願書を提出し、これらの記録が残されることになった。

2019-11-10 16:36:46
銅折葉 @domioriha

なおこの養蚕講、見事に失敗したらしい。細谷は明治5年に北海道開拓史をやめて仙台に戻っているのだが、この事業失敗が何かしらの影響を及ぼした可能性があるのではないだろうか。

2019-11-10 16:38:03
銅折葉 @domioriha

で、思い立って北海道公文書館で開拓史公文書を検索したところ、明治5年に細谷武一郎が採用された話や、このファーブル商会からの借金の借り入れについて説明した文書などが残されていた。これで細谷武一郎が十太夫のことであり、彼が養蚕講を起こそうとしたのはほぼ確実と思われる。

2019-11-10 16:39:43
銅折葉 @domioriha

また、「仙台藩細谷司長従者山下正太郎仙台藩支配地千島国蘂取郡ヘ大木丸ヘ乗組差遣ノ件」 明治3.9.24という文書もみつかり、北海道沙流郡の開拓に従事していた頃の細谷が、部下を仙台藩が支配地としていた千島蘂取郡へ派遣していたことも分かった。

2019-11-10 16:41:09
銅折葉 @domioriha

ついでに江戸三百藩家臣人物辞典などをきちんと調べて、細谷が「細谷十吉直高」の子であること、祖父に養育され塩釜法蓮寺へ寺小姓に出されたこと、安政3年に家督を継ぎ、元治元年御所警衛に上京した頃、「伽羅仙台萩」上演に怒って四条通の芝居小屋を打ち壊したことなどをチェックした。

2019-11-10 16:43:57
銅折葉 @domioriha

「からす組細谷十太夫」の内容をまとめたものであるが、先祖が城州細谷甚兵衛某であり、代々伊達郡細谷邑に住みそれを氏にした、剣槍弓銃の諸芸に達し、撫御の術(合気道?)に長じたといった記載もあり、槍を得意にしたという仙台文書の記載とも一致する。

2019-11-10 16:47:04
銅折葉 @domioriha

もうひとつ。「渡波町史」に収録されていた色川善作の手記「渡波塩田開田誌」にて、榎本艦隊が石巻尾崎に停泊中、仙台藩より内密に白米八百石その他雑貨等を届けさせた記録があり、この時船二艘を率いてこれらの物資を送ったのが細谷武一郎・武田孝之助とされておりました。

2019-11-10 17:00:54
銅折葉 @domioriha

榎本武揚らが石巻に来たのが8月27日(旧暦)、新撰組や星恂太郎の額兵隊を乗せて仙台を出発して盛岡の宮古湾に向かうのが10月11日あたりなので、この間にあったことであろうと思われます。(資料内には10月1日とある)

2019-11-10 17:03:56
銅折葉 @domioriha

春風館文庫目録によれば、明治15年に細谷十太郎氏は山岡鉄舟の剣術道場、春風館に入門している。 春風館文庫目録 - 国立国会図書館サーチ iss.ndl.go.jp/books/R1000000… #ndlsearch

2020-03-07 12:08:30
銅折葉 @domioriha

細谷直英の足跡を探るやつ、追加で二つほど掴んだので追記。というかこのあたりのことからす組細谷十太夫の最後のほうに書いてあったよ。不正確だと思い込んで真面目に調べてなかったのよくないね。

2020-03-17 21:16:45
銅折葉 @domioriha

まず一つめ。明治5年に北海道開拓使を辞して仙台に戻ってきた細谷は、磐前県(現在の福島県いわき市のあたり)の職員となって明治9年に磐前県が合併するまでここに勤めているのだが、この間に何をやっていたかについて。 これはググったら簡単に名前が出てきた。

2020-03-17 21:18:23
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