図説二本松・安達の歴史(福島県の歴史シリーズ) j-milk.jp/digitalarchive… >198〜199頁に「北海道から乳牛百頭(酪農の神様・斎藤二良)」の標題で次の記述があります。福島県の酪農のスタートは磐前県権中属の細谷直英と士族の大悲山重一が明治8年上小川村八茎山で飼育を始めたこととされています。
2020-03-17 21:19:36磐前県の酪農は、上小川村の牧牛共立社から始まったことが福島県史(books.google.co.jp/books?id=gDZEA…)や福島県農業史(books.google.co.jp/books?id=duseA…)で述べられる。この牧牛共立社は明治9(1879)年3月8日、上小川村の白井遠平、草野庄蔵、草野高蔵、草野紋十郎らによって設立さた。(crd.ndl.go.jp/reference/modu…)
2020-03-17 21:22:21この前史に当たるのが、明治8年の細谷直英と大悲山重一による乳牛の仕入れであるということらしいです。大悲山重一氏についてはあまり詳しい情報がないのですが、福島県史やいわき市史、相馬市史などに名前が見えます。
2020-03-17 21:24:52もう一点。明治15年に北海道の幕別に渡り、武山土平と共に入植と開拓に勤しんだ後の細谷の動向について、南洋探検の気持ちが沸き起こり、横尾東作の硫黄島探検に同行したが特に得るもの無く帰ってきた、という「からす組隊長細谷十太夫」の記述について。
2020-03-17 21:27:29「南洋資料」に、細谷が明治20年、当時の東京府知事高橋五六の従者として「明治丸」に乗船し、硫黄島に赴いた旨の記事があるのを確認しました。(books.google.co.jp/books?id=vTBAA…) 横尾東作伝では硫黄島の探索についてはあまり触れられていないので、「太平洋探検家鈴木経勲―伝記・鈴木経勲」を調べたい。
2020-03-17 21:31:21石巻での細谷の動向などほかの資料が揃ってきて、十勝毎日新聞七十年史におけるこれらの記事、おそらく正確だろうと判断を覆す。 twitter.com/domioriha/stat…
2020-03-17 21:36:32細谷が北海道の入植で名前が出てくるのは明治15年の幕別町の話と、そのあと江政敏の代理人として活動した明治22年から23年頃の話のように思うのだが、記事中に細谷が北海等にいたと見られる記述が出てくるのが明治19年、27年、36年。この時細谷は仙台近郊にいたという資料の方が多い。
2019-01-19 10:41:45明治15年に大街道開拓の責任者を辞し、15年から16年にかけて幕別へ。武山土平に事業を引継いだとされる。このあと明治19年に再度渡道しているらしいがこれは詳細不明。このあと明治20年の11月から翌年にかけて南洋探検に出ていたことになる。
2020-03-17 21:39:18で、明治22年に細谷は江政敏の代理人として再び北海道幕別に。代理人を辞めて明治24年には仙台に戻っているのだが、明治26年に北海道十勝国アイヌ人の勧業奨励を政府から嘱託されてまた北海道に渡っているようだ。その後明治27年に、日清戦争を前に仙台義団の立ち上げを仙台で行っている。
2020-03-17 21:40:26となると、十勝毎日新聞七十年史による明治36年の細谷の渡道もおそらく実際にあったことではなかいか。同じ明治36年に細谷は出家を決意し横浜へ向かい、さらに世田谷の寺で修行しているので、たぶん北海道に行ったならその直前なのでは無いかと思う。
2020-03-17 21:42:26明治35年には細谷は石巻の尋常小学校に蔵書の一部を寄贈している。(目録がある) また、ここでは細谷が石巻を引き払って仙台に戻ったのが明治36年の5月という記述がある。石巻を離れる時に「烏仙居士」の名で歌を詠んでいるので、この時もう出家していたのであろう。
2020-03-17 21:54:32これ、重太郎ってなってるけどたぶん長男の十太郎氏だな。 twitter.com/domioriha/stat…
2020-03-17 21:56:51細谷は8月23日に仙台へと帰郷。代理人は細谷の息子である重太郎に引き継いだ、らしい。(重太郎のことはこの本で始めて知ったが、例の裁判書類の関係に載っていた)本の中ではこの後の展開はかなり江に同情的に書かれているが、引き継ぎに関してトラブルがあったことは間違いない。
2018-04-03 23:07:06兵士と軍夫の日清戦争によると、細谷が出家を決意したのは日清戦争の慰霊碑が暴風雨で倒れてしまったからという説明があり、暴風雨があったのが明治35年らしいので、蔵書を寄贈したタイミングなのではないだろうか。
2020-03-17 22:12:09戦前の南洋日本人移民の歴史 (神奈川大学評論ブックレット) 丹野 勲 amazon.co.jp/dp/4275020936/… @amazonJPさんから 読了。横尾東作の硫黄島探検に触れつつ「南洋資料」の細谷十太郎翁略伝も参照してるようなのだが、横尾東作の南洋探検に十太郎の父細谷十太夫が同行したことには言及がなかった。
2020-04-04 17:45:23十太郎翁略伝がまだ読めてないのだが、それらを参考資料にした本によると、十太郎は文久三年に生まれていて、十太夫がまだからす組を結成する前の誕生のようだ。 明治15年には山岡鉄舟の剣術道場、春風館に在籍していた記録がある。 twitter.com/domioriha/stat…
2020-04-05 10:37:33春風館文庫目録によれば、明治15年に細谷十太郎氏は山岡鉄舟の剣術道場、春風館に入門している。 春風館文庫目録 - 国立国会図書館サーチ iss.ndl.go.jp/books/R1000000… #ndlsearch
2020-03-07 12:08:30そして翌明治16年9月には東京駒場の農林学校(東京大学農学部の前身)に入学している。 千葉演習林沿革史資料(6) : 松野先生記念碑と林学教育事始めの人々 repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=pages_…
2020-04-05 10:40:36卒業後は北海道開拓使に所属し開拓に従事したとある。ちょうど十太夫が明治21年頃から24年頃にかけて幕別で入植事業をしていたので、この時期に重なる。十太夫が江政敏の代理人を辞めて息子の「重太郎」に引き継いだというのはたぶんこの仕事と重なっているのだろう。
2020-04-05 10:43:11で、そのあと十太郎は日清戦争後、軍属となって妻子と共に台湾に渡る。これも十太夫が軍夫として大陸に出征したあと、乙未戦争で台湾に転戦した後、戦後は台湾に入植をしたいと言っていた部分と重なる。 台湾の資料によると明治29年に細谷十太郎が技師として採用されてる。 ds3.th.gov.tw/ds3/app000/lis…
2020-04-05 10:46:42で、このあと十太郎はちょっと旅行に行ってくると言い残し南方ニューギニアに向かって、昭和7年38年ぶりの帰郷を果たすまで戻ってこなかった。ニューギニアでは綿花の事業を行い、その後長らく継承されてゆく。
2020-04-05 10:49:501本目、南洋経済研究所の南洋資料第65巻、細谷十太郎翁略伝。 先日の「戦前の南洋日本人移民の歴史」でも多くが引用されていた内容で、全体的にはほぼ重複していた。若き日に山岡鉄舟の元で剣を学んだ話が補遺として述べられており、春風館の名簿に名前があったことの裏付けが取れた。
2020-04-06 20:49:59あと「父十太夫に似て丈こそ低けれ、容貌秀麗の烈々たる気迫を蔵し、まさに子の父にしてこの子有りと評すべき快男児であったといふ」とあり、「細谷十太夫と石巻」にあった、十太夫の背丈は五尺二、三寸(約160センチ)という評と合う。
2020-04-06 20:53:09次、南洋資料第258号「横尾東作と南方先覚志士」。横尾東作の南洋探検について、「横尾東作伝」とは別資料から触れたものだが、この「硫黄島の探検とその領有」の節において、明治21年11月1日の探検航海に、細谷直英が同行していることが確認できた。
2020-04-06 20:55:51